【どうする家康】ムロツヨシが怪演 史上最恐の秀吉こそ本当の秀吉と言い切れる理由

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磔、斬首、煮殺し、鋸挽き……

 まず、フロイス『日本史』に記された天正15年(1587)の事例について。伊勢から来た若者が20~30人の武士を従えて大坂城を訪れ、秀吉の兄弟だと主張した。しかし、秀吉は農業か漁業を生業とする若者を自分の血縁と認めたくなかったのだろう。母親の大政所に若者を息子と認めるかと問い質し、彼女も認知するのを恥じて「生んだ覚えはない」と答えた。すると「その若者は従者ともども捕縛され、関白の面前で斬首され、それらの首は棒に刺され、都への街道筋に曝された」

 続いて、淀殿こと茶々が鶴松を妊娠中の天正17年2月。聚楽第の正門に茶々の懐妊を揶揄する落首が貼られたときのこと(子種がないと思われていた秀吉の子かどうか疑う内容だった)。秀吉は門の警護に当たっていた17名を処罰したが、その内容は、鼻を削ぎ、日を置いて耳を切り、翌日から3日にわたって逆さ磔というもので、大政所が懇願して7人は拷問こそ免れたものの、それでも6人は引き回しのうえ磔、残り1人は斬首。その後も、関係者が逃げ込んだ地域が焼き払われ、113人が死罪になった(『鹿苑日記』など)。

 その鶴松が死に、あらたに拾(のちの秀頼)が生まれてからのこと。文禄2年(1593)11月、城中に仕える女性が暇を申し出ないまま男とつながったことで、彼女が産んだ子と乳母は煮殺され、彼女と男は土に入れられ、首だけ出して7日間、竹の鋸で挽かれたという(『時慶卿記』)。秀吉はこの年の8月まで、朝鮮出兵の前線基地である肥前(佐賀)の名護屋城に滞在していた。フロイスの『日本史』によれば、秀吉は自分の不在期間に風紀が乱れていたのを問題にしたようで、「火刑や斬罪に処せられた者は三十名を超えた」という。

 フロイスは別にこんな逸話も記す。妾が病気になった際、秀吉は黄金を与えて自宅に帰し、その妾は自由行動を許されたと思い、回復すると僧侶に嫁いで一子をもうけた。あるとき彼女は気軽に秀吉に会いに行ったが、秀吉は彼女が結婚したと聞くと「烈火のように憤り、彼女とその夫を捕えさせ、腰まで地に埋め、両名を一本の柱に縛りつけて、恐るべき苦痛を嘗めさせ、三日間にわたり、竹製の鋸で徐々に彼らの首を切るように命じた。だがそのやり方では殺せないことが判ると、斬首せしめ、(さらに)その子供と乳母、および女の母親をも火刑に処した」

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