心優しき巨人の生き方 ジャイアント馬場はなぜキャデラックに乗り続けたのか

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アメリカでは「悪役」だった

 1961年、プロレスの本場・アメリカへの武者修行に旅立つ。その巨体から「東洋の悪魔」として恐れられ、リング上では「ヒール(悪役)」となった。「ジャイアント馬場」のリングネームがついたのは米国時代だったという。

 2年近い修業を終え、日本に帰ってきた馬場は、日本プロレス界のエースとして活躍。ライバルには同期入門のアントニオ猪木(1943~2022)がいた。

 1963年の暮れ、力道山が赤坂で暴漢に刺され死去。馬場と猪木はやがてそれぞれの団体を旗揚げし、プロレス界は「馬場vs.猪木」の時代に入っていくが、詳しくは省略する。ただ、猪木が格闘技としてのプロレスにこだわったのに対し、馬場は「明るく、楽しく、激しい」プロレスを目指した。2人の人生哲学の違いと言えようか。

 数々の交友エピソードの中で私が好きなのは、「人間発電所」と呼ばれたブルーノ・サンマルチノ(1935~2018)とのものだ。来日した時、窮屈そうに日本車に乗っていた馬場を目撃し、サンマルチノは愛車のキャデラックを船便で贈った。感激した馬場は、以来、車を買い替える際は、同じ色と型のキャデラックを選んだ。死闘を繰り広げたレスラーとも、ひとたびリングを離れれば深い信頼に結ばれていたのである。

 馬場と対談をしたことがある歌手の円広志(70)も「心の大きな人でした」と振り返る。自宅の玄関には馬場から贈られた大きな革靴を飾っているという。「生涯現役」を掲げ、60歳の還暦試合で赤いちゃんちゃんこを羽織った馬場は、「肉体は衰えても、たたずまいは美しかった」と円は話す。

 1998年12月5日の日本武道館での試合を最後に体調を崩し、同月7日に入院した馬場。決して大言壮語をしなかった。大きすぎる体にしみついていたのは、優しさと寂しさだった。静かな余韻を残したまま、1999年1月31日、巨人は天国へと旅立った。

 次回は伝説のストリッパー、一条さゆり(1929?~1997)。「一条の前に一条はなく、一条の後に一条はない」とまで言われた裸の女神の足跡をたどる。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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