心優しき巨人の生き方 ジャイアント馬場はなぜキャデラックに乗り続けたのか
読書家で知られ、油絵も玄人はだし
たしかに「心優しき巨人」だった。私が直接、馬場を見たのは、半世紀ほど前の中学生の時。川崎の体育館で全日本プロレスの試合があり、会場の入り口近くでは馬場のイラストをプリントしたTシャツなどを販売していた。
そのすぐ近くで、売れ行きを優しそうな眼差しで見守っていたのが全日本の社長であるジャイアント馬場だった。口にはしなかったが、「でっかいなあ~」。心の中でそんな言葉が出た。馬場が座っていた折りたたみの椅子が、小さく小さく見えた。
この「でっかいなあ~」という言葉を馬場は何度も聞かされ、大衆から奇異の眼差しで見られてきたことだろう。テレビ番組に出演すると、必ずと言っていいほど手や足の大きさを比べられる。嫌な気持ちにはならなかったのか。
ライターの村尾国士のインタビューに、馬場はかつてこう答えた。
「まあ、人一倍大きいことで、プロレスもここまでやってこれたし、大きいことを売り物にしてきたわけですから、ある程度まではしょうがないと思います。だけど、あんまりひどいと、やっぱり腹が立ちますよ。この間も、関西の若いタレントが『ウンコはどのくらい大きいんですか』、そんなことを聞く。編集でカットされたようですけど、そういうのには、ボクはただ軽蔑するだけです」(「AERA」98年3月23日号「現代の肖像」)
穏やかでゆったりとした言葉遣い。村尾は「体格だけでなく、感性も知性も並ではない人だとすぐに了解できる」と書いた。
馬場は読書家で知られ、油絵も玄人はだしだった。巡業先では試合のあと、宴会などには出席せず、まっすぐホテルに帰った。
自らの強さを誇らしげにするのではなく、還暦の60歳を超えるころからは前座の試合にも出た。生涯現役。ファンは肉体が衰えてもリングに上がり続ける馬場に声援を送った。
「赤バット」と「青バット」に憧れて
ここで馬場の経歴について振り返ろう。
1938(昭和13)年、新潟県三条市で青果店を営む両親の次男として生まれた。子どものころから店を手伝い、毎朝、登校前に5キロ離れた市場までリヤカーで仕入れに通った。
野球に熱中し、憧れは「赤バット」の川上哲治(1920~2013)と「青バット」の大下弘(1922~1979)。三条実業高校(現・新潟県央工業高校)では投手で活躍。重くて速い球がズバンズバンとミットに収まったそうだ。甲子園には出場できなかったが、練習試合で三振を奪う制球力がスカウトの目にとまり、1955年、巨人に入団した。
学校も町もこぞって入団を祝ってくれたが、鳴かず飛ばずの日々。3年目の1956年秋には突然視力が落ちた。巨体と関係があったのか、脳下垂体が視神経を圧迫したためだという。開頭して頭蓋骨を削る大手術を受け、頭に包帯を巻いたまま翌年の春季キャンプに参加した。
だが1959年、巨人軍から解雇通告。ほとんど登板の機会はなく、一軍での公式記録は0勝1敗だった。翌年、大洋ホエールズにテスト生として拾われたが、キャンプ中に風呂場で転倒し、腕に大けがをした。
完全に投手生命を断たれた馬場。野球界を去った巨人に、ヘビー級ボクサーや俳優など、あちこちから誘いの声がかかった。郷里の母は「帰って八百屋を継げ」。だが、新潟には戻らなかった。
1960年、馬場は力道山(1924~1963)が率いる日本プロレスの門を叩いた。「ここなら大きな体を生かせるのでは」。子どものころから喧嘩もしたことがなかった繊細で心優しき馬場にとっては180度の転身だ。厳しい指導の下、体をとことん鍛え抜き、半年後には「超大型新人」として初のリングに上がった。
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