心優しき巨人の生き方 ジャイアント馬場はなぜキャデラックに乗り続けたのか
巨大な片足で相手を倒せば「16文キック」。両足でドロップキックを放てば「32文人間ロケット砲」。その存在はもちろん、日本でプロレス人気を築き上げた巨人として、誰もがその名を知るジャイアント馬場(1938~1999)。晩年の、ややもすればスローモーな馬場を知る方も多いかも知れませんが、往年のファイトは壮絶そのもの。大流血アリ、60分フルタイムドローの名勝負あり……。でも、素顔の馬場は、とてもレスラーとは思えない性格だったとか。朝日新聞編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回は世界の巨人・ジャイアント馬場の人生に迫ります。
【写真で見る】やっぱり馬場さんはジャイアントだった! 愛車のキャデラックも
「心優しき巨人」
16文キック、逆水平チョップ、ヤシの実割り……。
身長209センチの体でリングを暴れまくった姿は、ファンの脳裏にいまも鮮明に焼き付いている。プロレスラー・ジャイアント馬場(本名・馬場正平)。肝不全のため東京都内の病院で亡くなったのは1999年1月31日。享年61。日本プロレス界の巨人の死を、各メディアが一斉に報じたのは2日後の2月2日だった。
当時、朝日新聞名古屋本社で社会部の遊軍キャップだった私は、名古屋向けの社会面をどう展開しようか悩んだ。何しろ馬場の出身は新潟県。所属する全日本プロレスの本社は東京にあり、一緒にリングに上がったレスラーなど名古屋にいるのだろうかと頭を抱えた。
「名古屋でタレント活動をしているサンダー杉山(1940~2002)なら何かコメントをくれるのでは」
デスク席の周辺にいた同僚が教えてくれた。杉山は1964年の東京五輪のレスリング代表選手。国際プロレスから馬場が設立した全日本プロレスへと移籍し、必殺技「雷電ドロップ」でファンを沸かせた人気レスラーである。
名古屋市内の病院に入院していることが分かり、私はタクシーで向かった。
杉山は突然の取材に少し驚いた表情だったが、馬場との思い出を淡々と語り始めた。以下が、その時、取材した記事である。
《「馬場さんが還暦を過ぎても元気でリングに上がっていることが励みだった」。ジャイアント馬場さん(61)の悲報が日本列島を駆け巡った二日、名古屋市の病院に入院している元プロレスラー、サンダー杉山さん(59)=本名・杉山恒治=は話した。この十七年間、糖尿病、肝臓病、胃がんなど入退院を繰り返してきた。
杉山さんは東京五輪でレスリングに出場後、馬場さんに熱心に誘われ、プロレス入りした。「下に対して不快な思いをさせたりしない人。何もかも控えめだった」
一九七二年、馬場さんが全日本プロレスを旗揚げしたころ。杉山さんはプロレスを一時退き、名古屋で飲食店などを経営していた。
馬場さんは名古屋に来るたび、杉山さんが経営するレストランが入っているビジネスホテルを利用してくれた。狭い部屋なのに嫌な顔を少しも見せず、ベッドやソファを並べて寝た。
十六文キック、三十二文ロケット砲、脳天唐竹割り……。悪役をなぎ倒す姿に、ファンは酔いしれた。「普通の技でも馬場さんが使うと、どっと歓声がわく。並のレスラーとは違う」
だが、リングの上でも下でも、なぜさみしそうな顔をしていたのか。
「馬場さんは黙っていても威圧感がある。その威圧感を消そうと努力していたのではないか」と杉山さんは言う。日本という社会にあって、「心優しき巨人」馬場さんは、身も心も窮屈な思いをしてきたように、杉山さんは思えてならない。》
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