「何もしない」が前衛芸術だった時代が懐かしい 禅も主張する「無目的な時間」の重要性

  • ブックマーク

 この間、初めて会った編集者から一冊の本をプレゼントされました。「何もしない」と題する本です。この編集者は、僕のエッセイを読んでくれていて、この「何もしない」は僕にふさわしいと思われたようです。僕もこの本の題名を見て、「おっ!」と思わず声をはり上げたような気がします。

「何もしない」、何んと魅力的な言葉だろうと思って、中を開いてみると、何んだか難しい言葉や概念でびっしり埋められているではないですか。「何もしない」じゃなく「何やらいっぱい」しているじゃないですか。「何もしない」んだったら、中味は真白だっていいじゃないかと、思わずひねくれてしまいました。

 われわれは常に、「何かする」ことばかりに追われているような気がします。もし「何もしない」なら、そのまま死んでしまいそうになります。この本はどうも学者相手に書いた本で、われわれ一般人向けの本ではなさそうです。

「何もしない」という理念はどうも西洋的というより東洋的な人間の生き方ではないかと思い、ふと禅に関心のあった現代音楽家のジョン・ケージの「何もしない」曲を想い出しました。1960年代後半だったと思いますが、草月会館で作曲家の一柳慧(とし)さんが、ジョン・ケージの「何もしない」ピアノ曲を演奏したのを見た(決して聴いたとはいえない)ことがあります。ピアノの前に座って、おもむろに腕時計を腕からはずして、楽譜台の上に乗っけて、そのまま時計を睨むこと4分33秒間。つまり、「何もしない」で、そのままピアノの前から引き上げてしまいました。

 このケージの曲は4分33秒間、「何もしない」ことをするという曲であったわけで、この間、客席の人達は黙ってピアノ曲を聴くのではなく、一柳さんの「何もしない」姿を見て、時々咳ばらいをしたり、身体をよじったりしながら、ピアニストと同様、沈黙をしているだけです。

 時々会場の外を走る車の音などが耳に入るだけで、何んとも息づまった息苦しい時間を、観客は黙って受け入れているのです。

「何もしない」演奏が終ってピアニストの一柳さんが立ち去ると、急に客席から拍手が湧き起こりました。誰もが「変なの?!」と思ったはずですが、この沈黙時間を「何もしない」まま文句も言わないで受け入れたのです。この、1960年代頃の現代音楽は、不確定性の音楽と呼ばれて、観客は音楽の観念を体感していたのです。

 何も描かない真白なキャンバスが画廊に展示されるように、一切演奏しない「何もしない」芸術が存在していた時代です。この時代は、既成の芸術表現を片端から否定する時代だったのです。つまり「何もしない」ことをする芸術行為の時代です。この「何もしない」曲を作曲(?)したジョン・ケージという作曲家は、禅の影響から、「何もしない」音楽に到達した人です。といってケージは禅の実践者ではなく、多分、鈴木大拙の禅の本の影響を観念的に受け止めたに過ぎないと思います。

 演奏しないピアニストはピアノの前でまるで坐禅をするように黙して語らず、只(ただ)座するだけです。客席や会場の外部から聞こえる雑音が、つまり坐禅中に去来する雑念であるといいたいのかも知れません。今から思うとキツネにつままれたような、あの時代の最先端の前衛芸術だったのです。それを誰も異議申し立てもしないで、全て受け入れていたというわけです。そんな時代に僕も生きていたのです。

 だから「何もしない」という行為が懐しく感じられるのです。その後、僕は禅寺に一年ばかり参禅して、禅を齧(かじ)ったことがあります。禅は確かに「何もしない」ことを体験することの重要性を主張します。「何もしない」ことで宇宙との一体感を味わうのです。「何もしない」ことが、どれほど素晴しいのかということを禅は示そうとしているのです。それが如何に素晴しいのかは、僕にはわかりませんが、「何もしない」ことは、目的がないということだと思います。われわれは目的のないことには中々行動を起こしません。何かのために何かをするのだから「何もしない」なんて、けしからんことです。そんなけしからんことこそが、本当は一番凄いことなのかもわかりません。このわれわれの現世では目的がなければ生きていけません。

「何もしない」ことをする生き方はもしかしたら、われわれが死んでから体験する生き方で、どうも宇宙的な生き方のように思います。死んだあとに生きやすいために、「何もしない」生き方を、神仏がソーッと教えてくれているのかも知れません。われわれは、この世では、あまりにも何かすることに振り廻されて生きています。そんな時に「何もしない」生き方は死後の世界からのカルチャーショックと言えるのではないでしょうか。よき死者になるために今から「何もしない」生き方を練習するのも悪くないかも知れませんね。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2015年第27回高松宮殿下記念世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。22年度日本芸術院会員。

週刊新潮 2023年10月19日号掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。