儒教の本場・中国で「孔子を徹底批判した男」がたどった恐ろしい末路とは?

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 孔子を始祖とする儒教は、中国で2000年以上にわたり強い影響力を持ってきた。毛沢東時代には封建主義の象徴として何度か儒教批判が巻き起こるものの、今では共産党の権威主義体制を正当化する「体制教学」として復権するなど、中国社会に深く根付いている。

 その儒教がほんとうの体制教学だった明代に、果敢にも儒学者ひいては本尊の孔子を激しく批判した思想家がいた。その名は「李卓吾(りたくご)」。彼の過激な言動は激しい迫害を招き、ついに捕縛され、獄中で自刎するという凄絶な末路をたどった。

 ときに17世紀のはじめ。地動説をとなえたジョルダーノ・ブルーノがローマで火あぶりになったのと同じ時期である。東西の異端者の悲劇というべきだろうか。

 はたして、李卓吾とはどのような思想家だったのか。京都府立大学教授の岡本隆司さんの著書『悪党たちの中華帝国』では、陽明学左派の系譜を継ぐ李卓吾の思想と生涯を詳しく解説している。同書から一部を再編集して紹介しよう。

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出世コースを外れた官僚

 李卓吾が生まれたのは嘉靖6年(1527)10月、福建省泉州においてである。泉州は、港町として名高い。現在その代表的な観光スポットといえば「清浄寺」、つまりイスラム教のモスクである。このモスクはさかのぼること宋代の昔、11世紀のはじめに創建された。つまり泉州はアラブ・ムスリム商人がさかんに出入していた港で、やがて中国第一の貿易港に発展し、マルコ・ポーロの『東方見聞録』にも「ザイトゥン市」として登場する。

 はるか数百年を下った当時も、なお活気は失われていない。李卓吾の祖先も大商人であり、ムスリムないしイスラム教とつながりがあったと称せられる。それがかれ自身、あるいはその思想に与えた影響も取り沙汰されるものの、そこはよくわからない。本人をムスリムとする説もあるし、その風は曾祖父の代までに家庭から消えていたという説もある。

 ともあれ本人の記すとおり、嘉靖31年(1552)、福建省での科挙に合格し、試験の第一関門は突破する。しかし富裕でなかったため、次の段階の試験に応じることができず、河南省ついで南京の学校の教官になった。ごく下級の官僚である。

 その後も顕官を得ることができず微職を転々とし、万暦5年(1577)、50歳を迎える頃にようやく雲南(うんなん)省姚安(ようあん)府の知事を拝命する。府知事はまずまずの地方官とはいえようが、雲南は西南の果ての辺境であるから、出世というほどでもない。しかも李卓吾の官歴は、これで終止符を打つのであった。

55歳で著述生活へ

 分岐は実に、その後の人生からはじまった。万暦9年(1581)に姚安府知事の任期を終えると、李卓吾は官を辞する。時に55歳、ようやく蓄財の運も向いてきた矢先の転身であった。そう決意した具体的な心境は、やはりよくわからない。わかるのは雲南赴任以前、北京・南京で暮らしていたころに、生活苦を嘗(な)めながら、陽明学左派の思想にふれたことである。

 北京では王龍渓の説を知り、泰州学派の講学に列した。南京ではその泰州学派に属する焦竑(しょうこう)や耿定理(こうていり)と親交を結んで、いよいよ陽明学左派に傾倒している。おそらくそこで、従前の世界観・人生観をあらためるにいたったとおぼしい。自らに率直で、既成の因習・慣例にとらわれない生き方を選んだ。

 李卓吾は姚安府知事の職を離れてからは、湖北省黄安県の耿定理のもとに身を寄せた。しばらくして耿定理が亡くなると、やや離れた麻城県龍潭(りゅうたん)の畔の山中にある芝仏院(しふついん)に落ち着いている。芝仏院は正式な寺院ではなかったものの、かなりの規模をもつ僧院・仏堂である。そこで李卓吾が送った日常生活は、本来の儒者というより、ほとんど仏僧にみまがうものだった、と評せられている。果たして万暦16年・62歳になると、ほんとうに剃髪(ていはつ)してしまった。

 別に出家・遁世を決断したわけではない。本人の筆によれば、かねて続いていた親族たちによる帰郷・俗事の強要、あるいは他人の束縛を絶つため、また自らすすんで「異端」となって、自分を「異端」と目する無見識人、エセ道学者たちをおだてるため、などと理由を書き連ねている。もっとも岡目には、夏に頭の痒(かゆ)さに耐えかねた、というのが実情でもあるらしい。すでに奇妙な生活で顰蹙(ひんしゅく)をまぬかれなかった李卓吾は、いよいよ奇怪な風体になった。

 著名なエピソードながら、これも世のしきたりに反撥した行蔵の一環とみることができるだろう。そんな剃髪をはじめとして、あくまで自らの信条に忠実な言動を持しつつ、それを非難しがちな他者には、挑発的挑戦的かつ冷笑的嘲弄的な態度に終始した。そうした生活から生み出された代表作は、『焚書』全6巻と『蔵書』全68巻である。

 いずれのタイトルも、聞き覚えのある名辞ではなかろうか。李卓吾一流のシニカルな命名にほかならない。前者は著名な「焚書坑儒」の焚書で、焼くべき書物、存在してはならぬ著述という意味、後者の「蔵書」は、現代日本語とは異なって、秘蔵隠匿すべき書物、人には見せられない著述、ということである。世俗に受け入れられぬ危険思想だと自ら認めた恰好ではあった。

「童心」という概念

 そうした著述をはぐくんだ芝仏院の生活は、「終日読書ばかりで、書物を手から放さず、執筆の手をやめることのない毎日、門を閉ざしてとじこもり、多くの書物を著して、人に接する暇も、人に教える暇もなかった」というのが、李卓吾本人の述懐である。さしあたっては、「人に接」して「人に教える」講学を事としたはずの陽明学者らしからぬ、「読書ばかり」という生活・活動のありように着目したい。

 さてその「極端」で「過激」な「思想」の根本にあったのは、「童心」概念である。生まれながら、自身の内にある心のあるがままという意味であり、それが「真」の心にほかならない。『焚書』に収める「童心説」という文章に、「童心とは仮を根絶し真に純化したものである。……もし童心を失うと、真の心を失う。真の心を失うと真の人ではなくなる」と定義する。
 
「仮」とは、借り物・ニセ・エセの意で、もちろんホンモノ・真実を意味する「真」の対概念である。「童心」がなくなれば、ホンモノの心が失われて、借り物・ニセの人ができあがる、というわけで、李卓吾が最も憎んだのがこの「仮」、自身のホンモノの心情・思念ではない、外来の借り物、自身を偽ったニセであった。

 それなら、その「童心」、「真」の心はなぜ失われるのか、といえば、「見聞」「道理」が外から入ってきて、圧倒してしまうからである。その「道理・見聞は、読書を多くし義理を識るところから来る」のであって、いまの「学者」は、「読書を多くし義理を識る」ことで「童心」を碍(さまた)げて、外来の「見聞」「道理」がその心になってしまっている。
 
 かくて、「発言はすべて見聞・道理の言うところであって、童心が自ら発する言ではない。それがいかに巧みでも、自分のものではない。それならこれはまさしく仮の人が仮の言をいい、仮の事をやり、仮の文をつくることではあるまいか。人が仮であれば、仮ではないものはない。満場すべて仮であれば、誰にも真偽の辨別はできなくなる」と述べて、「童心」=「真」と対立する「仮」=借り物・ニセ・エセ・偽善を徹底的に攻撃した。
 
「童心」概念が陽明学の核心である「良知」を発展させたものなのは、これで明らかであろう。

権威主義との対決

 さらに注意したいのは、「仮」の端緒・導入が「見聞」、つまり外から見聞きして自分の内に入ってくる「道理」「義理」であることで、そのよすがは「読書」、書物を読むことである。
 
 この点、外在的な知識を自分の内にとりこむ修養に反撥する「知行合一」・反読書主義の陽明学左派にまったく合致していた。その意味で、李卓吾が陽明学の系譜をまっすぐ引いているのは明らかである。

 そうはいっても、その左派と異なる面もあったことはみのがせない。左派とりわけ泰州学派は、徹底して反書物主義を貫いていた。「読書」の否定的な面ばかりを強調するあまり、自分たちも「読書」を軽蔑して実践しなかったのである。それでは「読書」の功罪はわからない。一方的主観的な「読書」否定に陥ってしまい、書を読む修養を重視した右派や朱子学と対立しても、いわば水掛け論になる。

 だとすれば、泰州学派はいかに「講学」で庶民にアピールしても、「読書」する士大夫からは相手にされず、黙殺されかねない。陽明学が一体化をめざした士・庶は、かくて依然として分かれたままだった。

 ところが李卓吾は、自身は「読書」に没頭して、講学にはあまり従事していない。それでいて、「読書」を根柢から非難した。読書を愛して著述に嗜んだすえの「読書」批判なのである。それだけに切実で本質的な批判をなしたから、世上の「読書人」にとっては、自らの核心を衝く、ほんとうの脅威だった。

 果たして、その読書人たちの「仮」、まさに外から借り物として仕入れていた本尊にまで、李卓吾は攻撃を加えてくる。

「ここ千百年間、きちんと自分の目で是非を見分けた者はいなかった。是非を見分けられなかったわけではない。ただ孔子が良い、悪いと経書に書いてあることをそのまま鵜呑みにしているだけなので、誰も自分で判断を下していないのである。昨日良くても今日は悪い、昨日には悪くても後で良いとなることがあるかもしれない。もし孔子が今に生きておれば、昔の是非をおそらく変えるはずだ。……どのように読んでもらってもかまわないけれども、孔子の準則で賞罰することだけはやめてほしい」

 以上がおそらく最も著名な李卓吾の所説であろう。自分の内にある「真」が最も重要であるならば、儒教の経典も、尊重すべき教義を説いた聖賢すらも、外在的な「仮(かりもの)」にほかならない。それなら自身の「童心」に従って、その「是」と「非」を相対化して判断せねばならない、その「是」「非」に違うなら、聖人・孔子の言ってきたことも正しくない、その基準は願い下げだというべきである。かくて「中華帝国」で古来つづいてきた経典・聖賢の権威を真っ向から否定するにいたった。

 こうした論理は李卓吾に発する突然変異ではない。陽明学を創始した王陽明にも、「心底から納得できなければ、孔子の説でも従えない」という有名な言がある。自我を尊重する「近代思惟」にみまがう思想だった。こうした孔子・経典の相対化は、そもそも陽明学に内在する思想なのであり、李卓吾はそれを極限までつきつめたといってよい。しかしつきつめた分、物議を醸さざるをえず、非業の最期を迎えるのであった。

 異端者がたどった悲劇。その歴史的な意味は、体制教学・言論統制の問題で騒がしい現代こそ、考えるべき価値があるのではなかろうか。

※岡本隆司『悪党たちの中華帝国』(新潮選書)から一部を再編集

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