【どうする家康】“半世紀にわたる子づくり”が築いた徳川家の安泰 やっと生まれた秀頼だのみの秀吉は敵わなかった
半世紀にわたる子づくりで築かれた徳川家の安泰
側室の茶阿局が天正20年(1592)に産んだのが六男の忠輝で、越後(新潟県)高田63万石を得るが、家康の死後、兄の秀忠により改易された。しかし、忠輝はその後も配流先で92歳まで生きながらえた。茶阿局は文禄3年(1594)、七男の松千代も産んだが、6歳で没している。このころ家康はすでに50代だったが、文禄4年(1595)には八男の仙千代、四女の松姫と、子供は生まれ続けた。ただし、この2人はともに早世している。
続いて生まれた3人の男子を家康は溺愛した。慶長5年(1600)に於亀の方が産んだ九男の義直、同7年(1602)に於万の方が産んだ十男の頼宣、同8年(1603)にやはり於万の方が産んだ十一男の頼房。いずれも駿府城の家康のもとで育てられ、それぞれ尾張、紀伊(和歌山県)、水戸のいわゆる御三家の祖となった。家康の死に際に枕元に集まったのも、秀忠とこの3人だった。
その後、家康が60代半ばに達していた慶長12年(1607)にも、於梶の方が市姫を産んだが、わずか4歳で早世している。
こうして十一男五女をもうけた家康。認知しなかった双子を加えればさらに増え、ほかにも家康の落胤と伝えられる人物も少なくない。その代表格が江戸幕府の老中や大老も務めた土井利勝である。家康の伯父で織田信長の命で殺された水野信元の庶子とされ、信元の死後、土井利昌の養子になったのだが、『土井家譜』には「東照宮ノ庶子」、すなわち家康の子だと書かれ、同様の記述は井川春良の『視聴草』のほか、徳川家の公式記録『徳川実記』にもある。
いずれにせよ、半世紀近くにもわたって多くの子をもうけることができた点で、家康は秀吉の能力をはるかに上回っていた。こうして多くの親族に囲まれたことが、天下を獲り、治めるうえでも大きなアドバンテージになったことはいうまでもない。
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