【どうする家康】“半世紀にわたる子づくり”が築いた徳川家の安泰 やっと生まれた秀頼だのみの秀吉は敵わなかった

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子供が生まれ続けた家康の30代

 天正2年(1574)には次男の秀康が生まれた。母の名は於万などと記録され、家康に奉公する女房衆の一人だったと考えられる。秀吉、続いて下総(千葉県北部と茨城県南部)の結城家の養子となり、関ヶ原合戦後は越前(福井県)に68万石を得て、越前松平家の祖となるが、生後しばらくは家康の子として認知されなかった。黒田基樹氏によれば「女房衆の任免は正妻ないし『家』妻の管轄」であって、「築山殿が承認しない子であったから、家康もまた認知できなかった、と理解すべき」だという(『家康の正妻 築山殿』)。

 また、秀康は双子だとされるが、弟は死ぬまで認知されなかったようだ。

 続いて生まれたのが次女の督姫で、西郡の方と呼ばれる母は、やはり家康に女房衆として仕えていたようだ。北条氏直に嫁ぎ、その死後、池田照政(のちの輝政)の妻になった。秀康のような問題が伝えられていないので、出産は「築山殿の了解のもとであった可能性が想定される」と黒田氏は書く。また、以前は生年が永禄8年(1565)だとされたが、慶長元年(1596)以降、池田輝政とのあいだに5男2女をもうけたことからも、天正3年(1575)生まれだと考えられるという(黒田氏・同著)。

 三男で、のちに嫡男として将軍職を継承する秀忠が生まれたのは天正7年(1579)。 母は西郷の局、または於愛と呼ばれる。この年は築山殿と信康が死に追い込まれており、すでに築山殿の干渉はなかったと考えられる。於愛は翌天正8年(1580)、四男の忠吉も産んでいる。忠吉は関ヶ原合戦で戦功を挙げ、尾張(愛知県西部)と美濃(岐阜県南部)に52万石を得るが、慶長12年(1607)、28歳で病没している。

 忠吉が生まれた天正8年(1580)には、穴山信君の幼女で側室の下山殿(於都摩)が、三女の振姫を出産。秀吉に命じられて蒲生秀行に嫁ぎ、秀行の死後、家康の命で浅野長晟と再婚。翌年に38歳で死去するが、長晟の次男の光晟を産み、浅野家に家康の血を継いでいまにいたっている。下山殿は天正11年(1583)には五男の信吉を産んでいる。信吉は滅亡した武田家の名跡を継ぎ、関ヶ原合戦後は常陸(茨城県)の水戸に25万石を得たが、21歳で没した。

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