【どうする家康】“半世紀にわたる子づくり”が築いた徳川家の安泰 やっと生まれた秀頼だのみの秀吉は敵わなかった
秀吉は正室、側室のほか無数の妾がいたのに
秀吉の正室は北政所こと寧々で、淀殿も事実上の正室だったと考えられる(福田千鶴『淀殿』)。側室としては淀殿の従姉であった松の丸殿こと京極龍子、主君だった織田信長の娘の三の丸殿、前田利家の娘の加賀殿こと前田摩阿等々、錚々たる血筋の女性が並ぶ。わかっているだけで10人を超える側室がいた。
フロイスは『日本史』に「彼(秀吉)は政庁内に大身たちの若い娘たちを三百名も留めているのみならず、訪れて行く種々の城に、また別の多数の娘たちを置いていた」と書いている。また「関白は極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺しており、二百名以上の女を宮殿の奥深くに囲っていたが、さらに都と堺の市民と役人たちの未婚の娘および未亡人をすべて連行して来るように命じた」とも記している。
側室の数と「三百名」「二百名以上」という数字が一致しないため、後者はフロイスの作り話だと解する向きもあるが、実際にはこれらの表現はまったく矛盾しない。この時代の権力者は一夫多妻多妾制で、妻として迎え入れている側室と妾のあいだには厳然たる差があり、妾は何人いてもよかった。これだけ多数の女性と交わっても生まれない子供を、淀殿だけが授かるのは不自然だ――。そういう見方が当時からあったものと思われる。
一方の家康だが、正室の築山殿と結婚したのは、まだ駿府の今川義元のもとにいた弘治2年(1556)か3年(1557)で、2人にはすぐに2人の子供ができている。永禄2年(1559)3月に長男の竹千代(のちの松平信康)、翌永禄3年(1560)には、のちに奥平信昌に嫁ぐ長女の亀姫が生まれている。
しかし、その後は14年ほど、子供が生まれていない。家康と築山殿はある時期から不仲になったのは、彼女が謀反に関わったことからも疑いないが、家康が今川家から独立して以降、家康の子を一人も産んでいないのは、早くから不仲になったからかもしれない。
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