【どうする家康】“半世紀にわたる子づくり”が築いた徳川家の安泰 やっと生まれた秀頼だのみの秀吉は敵わなかった

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 欲望に歯止めがかからない豊臣秀吉(ムロツヨシ)と、翻弄される徳川家康(松本潤)。NHK大河ドラマ『どうする家康』ではいま、二大英傑のそんな姿が描かれているが、秀吉が権力の絶頂にあった最中でも、家康にまったく太刀打ちできなかったことがあった。生まれた子供の数である。

 秀吉の実子とされるのは4人。現代の常識では少ないといえないが、追って述べる条件を考えれば、かなり少ない。具体的には、1人は秀吉が長浜城主になるかどうかという時期に生まれたという石松丸(羽柴秀勝)である。琵琶湖北岸に近い竹生島の宝厳寺に伝わる『竹生島奉加帳』に、「石松丸」に続き「南殿」と書かれていることから、秀吉が南殿という側室に産ませたともいわれる。だが、天正4年(1576)に幼くして死去したとされる。このころ女児も生まれたというが、やはり早世したとされ詳細はわからない。

 そもそも、この2人については、実在したかどうか真偽の確認すらなされていない。

 続いては、天正17年(1589)5月、淀殿こと浅井茶々が出産した鶴松だが、2年後の天正19年(1591)に死去。最後が、やはり茶々が文禄2年(1593)3月に産んだ拾、のちの秀頼である。

 だが、イエズス会宣教師のルイス・フロイスは『日本史』に、鶴松について「彼には唯一人の息子(鶴松)がいるだけであったが、多くの者は、もとより彼には子種がなく、子供をつくる体質を欠いているから、その息子は彼の子供ではない、とひそかに信じていた」(松田毅一・川崎桃太訳)と書いている。

 日本の為政者に忖度する必要がないフロイスがポルトガル語でこう書いているので、当時、秀吉に子種がないという噂が広く浸透していたということだろう。むろん、秀頼についても、秀吉の実子かどうかを疑う見方は根強い。多くの女性に無節操に手を出しながら子供が生まれなかった秀吉の実子を、彼女にかぎって産むのは不自然だからである。

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