「陸上部をやめ、復帰後にはビリ」 マラソン増田明美の知られざる学生生活とは(小林信也)
辞めた陸上部に復帰
増田が陸上競技に出会ったのは中学2年の冬。テニス部だったが、町内一周駅伝に駆り出されて走り、高校生を3人抜いて優勝の立役者になった。3年時には陸上全国大会800メートルで4位に入った。その走りを見た瀧田にスカウトされた。
「腕が横に振れるフォームで4位に入った私に魅力を感じてくださったようです。『オレと一緒に富士山のテッペンに登ろう』と誘われました。それがうれしくて」
瀧田の自宅の離れで下宿生活が始まった。ところが、1年の2学期に貧血で走れなくなった。瀧田からマネジャー転向を勧められた増田は悔しくて陸上部をやめ、自宅から2時間半かけて高校に通った。「地元の長生高に編入したかったのですが、私立から県立への転校ができなくて」
半年後、2年生の春に瀧田から声をかけられた。
「顔色もいいし、また戻らないか」
自分から戻るとは言いたくなかった。瀧田に誘われて増田は陸上部に戻った。
「でも、太ったまま出た千葉県大会で初めてビリになったのです。私はサブトラックを泣きながら茫然と歩きました。その時一緒に歩いてくださったのが長生高の関谷守監督でした。『転んだら、何かをつかんで立ち上がらなきゃね』と、その言葉が胸に響きました」
それから増田は練習後、秘密の特訓を始めた。
「電車の時間まで、『実家に電話するから』などと言って教室に戻り、制服のまま腹筋、背筋、バーピー(スクワット、腕立て、ジャンプなどを連続して行うエクササイズ)をやって、それから駅までの1.5キロを、タイムを計って走りました。そのうち、陸上競技マガジンに出ていた日本記録より速くなりました」
その秘密特訓が、高3の快進撃につながる。
結果から書くと、高卒から2年後、ロス五輪女子マラソン代表に選ばれた。が、16キロ地点で棄権し、メダルの期待に応えられなかった。
「空港で『非国民』と言われて、3カ月、自宅にこもりました。シャボン玉のように消えたいと思った……」
[2/3ページ]