「陸上部をやめ、復帰後にはビリ」 マラソン増田明美の知られざる学生生活とは(小林信也)

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 増田明美が世間で騒がれ始めたのは、1981年の春。成田高3年の増田が記録会1万メートルで日本新記録を出した。兵庫リレーカーニバルの5000メートルでも日本新。スポニチ国際陸上では3000メートルで日本新。6月のアジア陸上では3000メートルで優勝したほか、オープン競技の1万メートルでその春のボストンマラソン優勝者アリソン・ロー(ニュージーランド)、3位のジョーン・ベノイト(アメリカ)を破って優勝を飾った。

 79年に東京国際女子マラソンが始まり、81年2月に84年ロス五輪での女子マラソン採用が正式に決まった。にわかに女子マラソンが注目を集める時期に登場した“天才少女・増田明美”は、マラソンを走る前から“ロス五輪女子マラソンの星”に祭り上げられた。年が明けて2月、元旦に誕生日を迎えて18歳となり、日本陸連のマラソン参加規程を満たした増田は千葉県光町の小さな大会で初めてマラソンに挑戦する。結果は優勝、2時間36分34秒の日本最高記録だった。

「高校生でマラソンを走るなんて、いまなら考えられませんよね」と前置きして、増田がマラソン出場を決めた経緯を教えてくれた。

「成田高校の裏山に1周1.5キロの練習コースがあって、私は男子と一緒に20周をこなしていました。すごく急な坂道。私は男子より速くて、『お先に失礼します』って。先に行こうとした時、ふくらはぎにツバを吐かれたこともあります。悔しかったのでしょうね」

 あのコースで30キロを難なく走るのだからマラソンも走れるだろう、と成田高の監督で増田の恩師である瀧田詔生(つぐお)は考えた。しかし、

「マラソンは全然違いました。40キロを過ぎた時、止まるかもしれない、と思いました。足が棒になる、という言葉どおりでした」

 それでも日本最高。周囲の期待はますます高まった。複数企業の争奪戦の末、川崎製鉄千葉でロス五輪を目指す決断をした。一緒に入社した瀧田に指導を仰げる環境を選んだのだ。

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