蜃気楼のようにつかめそうでつかめない存在…全身白ずくめの娼婦「ヨコハマメリー」の謎めいた人生

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敗戦によって生まれた負の歴史

 敗戦後、メリーさんのような街娼は、日本のどの街にもいた。品がない表現だが、彼女たちは「パンパン」と言われ、白い目で見られた。パンパンとは戦後の日本に広まった俗語で、田村泰次郎(1911~1983)の小説「肉体の門」にも登場した。

 有名なのは、国鉄有楽町駅のガード下に立っていた「ラクチョウのお時」だろう。

「私たちが悪いんじゃない。世間が冷たいからさ。好きでこんな商売をしている人なんていないヨ」

 NHKラジオの街頭インタビューでそう答えた。

 客を探しながら今宵のねぐらを探す街娼。泣けて、泣けて、やがて涙も枯れ果てる。「こんな女に誰がした」という恨み節も出てくるだろう。

 さて、パンパンであるが、「パン2個でついてくる尻の軽さから」という説や、「パンパンと手をたたいて女性を招いた」という説など色々あるが、どれも確証はない。敗戦後、国家の仕組みがガタガタになり、社会全体が荒っぽくなっていた時代。「パングリッシュ」とは、娼婦たちが米兵に対して使った独自の英語のことだ。「オンリー」という隠語もあった。特定の人物の専属になる行為、またはその人のことを意味する。

 地方に目を移すと、三重県の津市には、赤い服に赤い靴と、全身を赤色で包んだ「赤いメリーさん」がいたし、長野県長野市の善光寺近くには「ハロハロおばさん」 がいた。天気が良い日には表通りに出て、通行人に対して「ハロー、ハロー」と英語で呼びかけていたそうである。でも、今はすぐに警察に通報されてしまうのだろう。

「愛してるよ」

 メリーさんに話を戻そう。

 実はメリーさんは、横浜を離れたあとの余生を故郷・中国地方の養護老人ホームで過ごし、2005年1月17日、心不全のため亡くなった。穏やかな日々だったという。私は数年前、メリーさんの故郷を訪ねたが、老人ホームはなかった。メリーさんの実家があったといわれる地域も訪ねたが、住んでいる人は少なく、限界集落のような趣を呈していた。

「あなた、私の何を知りたいの」

 とメリーさんに言われているような気がしたので、私はそのまま列車に乗って、東京に帰った。12月の半ば。中国地方の山間部を走る列車の窓から、線路脇の草木が粉雪混じりの寒風に揺れていた光景だけは、はっきり覚えている。正直、寂しいところだった。

 享年83と伝えられている生涯。ドキュメンタリー映画「ヨコハマメリー」や舞台、写真集も出た。私たちが思い出したくない、認めたくない現実をメリーさんは一身に背負い、たったひとりで街に出て立っていたのかもしれない。彼女がいつも座っていた道端の椅子には、誰かがマジックで「愛してるよ」と書いてあったという。

 さて次回は、力道山(1924~1963)の跡を継ぎアントニオ猪木(1943~2022)とともに日本のプロレスに一時代を築いたジャイアント馬場(1938~1999)。16文キック、脳天唐竹割り、椰子の実割り……。ファンを魅了した豪快な技が脳裏によみがえる。温かくて、優しくて、ときに、ちょっと寂しさを感じさせたジャイアント馬場とは何者だったのか。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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