蜃気楼のようにつかめそうでつかめない存在…全身白ずくめの娼婦「ヨコハマメリー」の謎めいた人生
その存在は知る人ぞ知るものでした。白いドレスに身を包み、大きなカバンを持って街を移動する。横浜駅近辺での目撃情報が相次いだことから、「ハマのメリーさん」はじめ数多の呼び名が付けられました。2006年に公開された映画「ヨコハマメリー」で広く知られるようになった彼女ですが、その人生は謎に包まれたまま。朝日新聞編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。謎めいた人生を送ったメリーさんに迫ります。
「白いお化け」と呼ばれた化粧の意味は?
その姿を横浜に住む私の叔母(78)が見たのは1965年ごろだったという。元号でいえば昭和40年ごろ。横浜駅西口にある高島屋に買い物に行ったとき、エレベーターから突然降りてきたそうだ。
「貴族のようなドレスに身を包んでいて、近寄りがたい雰囲気がありました」
と叔母は振り返る。
全身白ずくめで横浜の街角に立っていた娼婦「ハマのメリーさん」である。「白いお化け」「ホワイトさん」「きんきらさん」とも呼ばれた。
本名も、正確な年齢も、当時は誰も知らなかった。中国地方の生まれで、敗戦後は各地を転々とし、1960年代に横浜に居着いたということが分かったのは後のことである。
いかにもお金を持っていそうなアメリカの将校や外国人船員を相手とする「高級コールガール」。横浜の中心地、山下町や伊勢佐木町、馬車道などで袖を引いた。ほかの娼婦に対しては「あなたたちと私とは格が違うのよ」というような態度で接していたという。米海軍横須賀基地前の「どぶ板通り」で商売をしていたとの話もある。
手にはキャスターつきの大きなトランク。「あの中には大金が詰まっている」「本当は男だ」などさまざまな都市伝説が生まれた。
横浜の百貨店の楽器売り場では、展示中のピアノで「うみはひろいな おおきいな」と「海」を弾いていたこともあったそうだ。
横浜には米兵の住宅があった。エリート階級の米将校と付き合っていたメリーさんも暮らしていたのだろうか。何らかの事情で愛を貫くことはできず、その将校は米国に帰ってしまったのかも知れない。あの白いドレスは、セレブだった時代を忘れないための「舞台衣装」だったと言えなくもない。
そんなメリーさんに転機が訪れるのは82年。米軍の施設が建っていた本牧地区の「横浜海浜住宅地区」が日本に返還された年だ。
車やファッション、音楽など、米兵を通してアメリカ文化と深く関わってきた横浜の空気がまさに大きく変わろうとしていた。横浜駅の周辺などは、焼け跡闇市の面影をしのばせるような屋台が立ち並び、どこか暗い影をひきずっていたが、街はきれいに近代化の装いを呈するようになった。
横浜ゆかりのミュージシャンは、過去を懐かしむようにさまざまな歌を作った。なぜかメリーさんを思い起こさせる歌が多かった。
横浜生まれ横浜育ちの榊原政敏(74)が作詞作曲した「横浜マリー」もその一つ。妻・広子(72)とフォークデュオ「ダ・カーポ」を組み、「結婚するって本当ですか」などのヒット曲も出した榊原はこう語る。
「メリーさんは潮風が似合う港ヨコハマの象徴。謎めいたところもいい。あの化粧は、能の役者が面をかぶることによって聖なる存在になるような儀式だったのではないか」
確かにあの格好は、様々な人を驚かせ、感性を刺激するのだろう。老いてからは雑居ビルのエレベーターホールや廊下で寝泊まりする日々。いわゆるホームレスである。外見が不気味だという理由で、メリーさんの「棲息エリア」もどんどん狭められ、90年代になると行きつけの美容院からも排除されたという。
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