将来の夢が「郵便局に勤めて日曜画家」だった横尾忠則 5歳の時に描いた絵とは?

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 僕がやっと口が利けるようになった頃の話で、母に「お父ちゃん、どんな帽子をかぶって行ったの?」と僕が聞いたそうです。そこで母が簡単な帽子の絵を描いたら、その帽子の下に僕が父の顔を描いたというのです。それまで僕が絵を描く子供だとは思ったこともなく、初めて見るわが子の描いた絵に母はびっくりしたそうです。その絵は長い間わが家の写真帖に貼ってあったので僕もよく知っています。この絵が僕が初めて描いた絵かどうかは僕には記憶はありませんが、いわゆる幼児が描く落書きのような絵を描いた記憶もありません。

 僕のおぼろげな記憶をたどると、描く絵は全て誰かの描いた絵の模写ばかりでした。現存する僕の最初の絵は5歳の時に描いた「宮本武蔵」(講談社の絵本)の巌流島の決闘の場面の模写で、この絵を描いた当時の記憶(縁側の廊下に面した4畳半の部屋の畳の上に寝そべって、着物の反物の間にはさむ蝋(ろう)引きの薄い紙に油けのない堅くて色の薄いクレヨンで、非常に描きにくかった)は今もありありと回想できます。

 その頃わが家の隣には実の両親が住んでいて、長男である兄のために買った講談社の絵本、先きの「宮本武蔵」を初め、「新田義貞」「木村重成」「日本武尊」「桃太郎」「花咲爺」等の歴史やおとぎ話の絵本10冊ばかりを兄のおすそわけとして僕に残こして、実父母と兄は大阪に移ってしまいました。わが家には父の愛読書だった水谷準の探偵小説が一冊だけと僕の貰った絵本以外、本という本は一冊もありませんでした。

 養子の僕には老父母がいるだけでひとりっ子のために、幼年時代はいつも講談社の絵本やメンコの武者絵ばかりの模写をしていたように記憶しています。

 沢山あった幼少年時代の模写絵の全ては、親戚に預けたままでした。が、ある日親戚は、両親にも無断で僕の全ての持ち物を、如何なる理由か知りませんが全部焼却してしまいました。従って僕の10代の記憶のパンドラの箱の中味は何ひとつ残こらずこの地上から消失してしまったのです。この一件は余り思い出したくない過去のいいようのない悲しい記憶です。

 さて、ここで僕のいいたいことは10代に描いた絵のほとんどが模写であったということです。絵を描くということは、自分の空想や、実際の事物を描くということではなく、他人の描いた絵や写真をそっくり模写することが、僕の考える絵であったということです。ですから、いわゆる子供の描く自由画や、学校で教わる美術教育で参照される、印象派のような絵は僕にとっては対象外のものばかりで、高校の後半に出合う洋画のような油絵などは僕の興味の範疇にはなく、相変らず、映画スターの肖像画などを模写していました。要するに物真似の域を一歩もでていません。

 だから将来、画家になろうというような気持はいっさいなく、もし絵を職業にするなら映画の看板屋ではないだろうかと考えていましたが、それも漠然とした夢のようなもので一生の職業に値するかどうかは、あまり真剣に考えたことはありませんでした。家庭の経済的な事情で大学は高校入学と同時に諦めていました。老齢の両親を養う必要があったので、地元の郵便局に勤めながら、趣味の日曜画家として生活ができればと、それを夢のようにぼんやり、思っていたのです。またそんな細やかな生活に憧れてもいました。

 高校のクラスメイトの多くは大学を受験する準備をしていましたが、僕は元々勉強がそれほど好きではなかったので、高校から一日でも早く解放されたいという気持の方が強く、郵便切手の蒐集が趣味だったことから、郵便の仕事ができれば、それで充分だと思っていました。それ以外の希望も欲望もあまりなかったように思います。時代が時代だったのか、現在ならお定(きま)りのように都会の大学に行って、できれば収入の多い仕事とか注目される職業を視野に入れて、それなりの人生設計を立てるとか、そういうビジョンを持つ人が多いでしょう。でも、僕はなぜか、世間が注目するような生活や仕事には興味がなかったのは本当です。

 大学に行けなかったのは僕にとっては希望がかなえられたわけですが、ふとした予想もしない運命によって、高卒後、僕は地元から30キロも離れた街の印刷所に勤めることになるのです。全く予期もしていなかったし僕が望んでなったわけではなかったので、別に面白くも、楽しくもなかったように思います。その後、ここの印刷所を10ヶ月ほどで解雇されることになるのですが、では、そのあと、どうしようとも考えてはいませんでした。郵便局員になれなかったのも運命のいたずらですし、印刷所で解雇されたあとはしばらく無職状態が続くのです。街の別の印刷所のブローカーから、時々商店の包装紙のデザインを依頼されることがありましたが、別に面白い仕事ではなく、これを職業にしたいとも思いませんでした。

 結局は人生は思い通りにはいかないで(僕の場合は思いが希薄だった)、まるで鉄道のレールのように、次々とポイントが切り換えられながら路線通りに走らされてきたように思います。それはこれといった将来のビジョンを持っていなかったことが、かえって成るように成らしめられていった。その結果が今かな? と遠い昔のことを回想しながら思うのです。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2015年第27回高松宮殿下記念世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。22年度日本芸術院会員。

週刊新潮 2023年10月12日号掲載

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