【ジャニーズの闇】近藤真彦はオーディションに長ランとボンタンで現れた…窮地の事務所を救った「3年B組金八先生」秘話

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辞めた人間には冷酷なメリー氏

 この番組には近藤、田原、シブがき隊、1985年に「仮面舞踏会」でデビューした少年隊などが次々とゲスト出演。ジャニーズ臭が濃厚だった。一方でジャニーズ勢は、ほかの男子アイドルとの共演を拒むようになっていく。

 メリー氏は近藤を寵愛し、特別扱いした。傾いていたジャニーズ事務所を立て直してくれたからだ。2015年の「NHK紅白歌合戦」に近藤が19年ぶりに出場し、白組のトリを務め、「ギンギラギンにさりげなく」(1981年)を歌ったのもメリー氏の意向とされている。

 半面、メリー氏はジャニーズ事務所を辞めた人間に冷たかった。同事務所の礎を築いたのはフォーリーブスだが、2002年に約23年ぶりに再結成した際、コンサート会場の中野サンプラザホール(東京都中野区・現在は閉館)にはメリー氏からの祝電も祝花も届かなかった。筆者も取材に行き、打ち上げまで同行したが、コンサート関係者の「祝電くらいくれたっていいじゃないか」という嘆きが耳に残っている。

 田原にも冷たかった。田原が1994年に退所すると、テレビ出演は激減し、1996年には個人事務所が倒産する。テレビ局側が忖度し、番組から締め出したからだ。田原は2019年に東京ドームで行われたジャニー氏の「お別れの会」に参列していない。

SMAP登場で同事務所に生じた軋み

 1990年代から2016年までのジャニーズ事務所を支え、ほかのグループを売り出しやすくしたのはSMAPにほかならない。一方で、SMAPが登場したころから同事務所内には軋みが生じ始めた。

 SMAPを担当したのは当時のチーフマネージャー・飯島三智氏(65)。ジャニー氏は早くから飯島氏の才能と努力を認めていたが、メリー氏は煙たがるようになった。愛娘・ジュリー氏の立場を脅かす存在と考えたらしい。

 筆者がメリー氏側近の宣伝担当者にSMAPのインタビューを申し込むと、「SMAPじゃなくて、TOKIOにしない?」と企画変更を提案されたこともあった。TOKIOをプロデュースしたのはジュリー氏である。

 1990年代以降、各タレントは「ジャニー物件(ジャニー氏の担当タレント、以下同)」「ジュリー物件」「飯島物件」と呼ばれるようになった。売れっ子が1人もいなかった時代と違い、テレビ局やレコード会社への注文が簡単に付けられるようになったが、一方で組織の一体感は損なわれていった。

 帝国の崩壊は早くから約束されていたようだ。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。大学時代は放送局の学生AD。1990年のスポーツニッポン新聞社入社後は放送記者クラブに所属し、文化社会部記者と同専門委員として放送界のニュース全般やドラマレビュー、各局関係者や出演者のインタビューを書く。2010年の退社後は毎日新聞出版社「サンデー毎日」の編集次長などを務め、2019年に独立。

デイリー新潮編集部

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