【ジャニーズの闇】近藤真彦はオーディションに長ランとボンタンで現れた…窮地の事務所を救った「3年B組金八先生」秘話
近藤が事務所にもたらした利益と人脈
そんな日々は「3年B組金八先生」に近藤、田原、野村が出演することになって激変する。ジャニーズ事務所にとって幸運だったのは、オーディションでライバルとなった各児童劇団はミドルティーンの層が薄かったこと。層が厚いのは子役として活躍の場が多い10~13歳くらいまでだった。
また、各児童劇団の在籍者は真面目な雰囲気の子が目立った。一方、近藤と田原は不良っぽかった。それが買われた。近藤はオーディション会場に長ランとボンタン(丈が膝の下まである学生服とワタリが広くて裾が細い学生ズボン)で行ったほど。近藤の普段の格好だった。
ドラマ側はそんな生徒も求めていた。近藤が演じた星野清はツッパリだった。田原が扮した沢村正治もやはり不良の臭いが濃い生徒だった。当時は空前のヤンキーブームだったこともあり、2人はたちまち人気者となる。
ドラマが終わってから約半年後の1980年12月、近藤はファーストシングル「スニーカーぶる~す」を出す。この曲はオリコン初登場で1位になり、ミリオンセラーも達成した。たちまちジャニーズ事務所は大きな力を持った。歌番組が多い一方で、沢田研二(75)ですらミリオンのなかった時代だからである。
レコードの発売元はRVC(現ソニー・ミュージックレーベルズ)。プロデューサーは小杉理宇造氏(75)で、やがてジャニーズ事務所系のレコード会社であるジャニーズ・エンタテイメントの社長を務めた。顧問もやった。一方で山下達郎(70)の所属芸能事務所・スマイルカンパニーの社長も務めていた。近藤の存在はジャニーズ事務所に莫大な利益だけでなく人脈ももたらした。
近藤・田原の活躍から始まる「忖度」
片や田原が「哀愁でいと」でデビューしたのは1980年6月。ミリオンには届かなかったものの、約71万枚をリリース。大ヒットだった。発売元はキャニオンレコード(現ポニーキャニオン)傘下だったNAVレコード。近藤とレコード会社が違うのはジャニーズ事務所の戦略だ。
「なるべく多くのレコード会社と契約し、音楽界で力を持つのがジャニーズ流。だから自社系のレコード会社をつくろうが、そこに全てのタレントを集めなかった」(元ビクターレコード社員)
近藤と田原はその後も次々とヒットを飛ばした。このため、2人を起用したいテレビ局は絶えず、同じTBSの「2年B組仙八先生」(1981年)によって世に出た本木雅弘(57)、布川敏和(58)、薬丸裕英(57)を売り出しやすかった。
3人は1982年、シブがき隊を結成し、「NAI・NAI 16」でデビューする。近藤と田原に出てもらいたい歌番組側はシブがき隊を優先的に出演させた。このころからテレビ局側は忖度をせざるを得なくなり始める。
ジャニーズ勢の冠番組も出来た。ますますテレビ局に対する力が強くなった。まず近藤と田原、野村によるTBSのバラエティ「たのきん全力投球!」(1980年)。1986年にはデビュー前の男闘呼組がメインとなる日本テレビのバラエティ「アイドル花組おとこ組」が生まれた。男闘呼組はこれからの存在だったが、ジャニーズ勢に人気者が揃っていたから実現した。
[2/3ページ]