【ジャニーズの闇】近藤真彦はオーディションに長ランとボンタンで現れた…窮地の事務所を救った「3年B組金八先生」秘話
最近まで「帝国」と呼ばれていたジャニーズ事務所が崩壊する。創業者のジャニー喜多川氏が起こした性加害問題の補償を行うSMILE-UP.社と新エージェント会社に分離する。同事務所はどうして帝国と呼ばれるまでになったのか? その源泉を辿ると、TBS「3年B組金八先生」(1979年)に行き着く。
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「3年B組」で蘇ったジャニーズ
ジャニーズ帝国誕生の起源は「3年B組金八先生」にある。それまでは中小芸能事務所の1つに過ぎなかった。
当時、TBSの敏腕ドラマ制作者・柳井満氏は全く新しい学園ドラマをつくろうとしていた。舞台は都内の平凡な区立中学。そこで不登校、いじめ、愛と性の問題などが起こる。それまでの中学生ドラマが目を背けてきた話だ。
柳井氏が最初に主人公の先生役を依頼したのは西田敏行(75)。だが、所属する芸能事務所に断られた。次に依頼したのが武田鉄矢(74)。連続ドラマ初主演だったものの、これがハマった。
生徒役はほぼ全員がオーディションで決められた。ジャニーズ勢もそう。当時中3だった近藤真彦(59)、高校を卒業したばかりの田原俊彦(62)、やはり中3の野村義男(58)が出演することになった。ジャニーズ事務所前社長の藤島ジュリー景子氏(57)もオーディションを経て出演した。
メリー喜多川名誉会長(2021年に93歳で死去)は後に強い政治力を発揮するようになり、各局の大物プロデューサーや首脳とツーカーの関係になるが、当時は力を持っていなかった。柳井氏とのパイプもなかった。ジャニーズ事務所に力がなかったからである。
麻雀仲間はジャニー氏を「ジャニ子」と
一方、当時はジャニー喜多川氏もくすぶっていた。ジャニーズ事務所は1962年に渡辺プロダクションの系列会社として創業されたものの、同年結成のジャニーズが1967年に、1967年結成のフォーリーブスが1978年に解散すると、売れっ子が誰もいなくなってしまったからだ。
1974年にデビューしたJOHNNYS'ジュニア・スペシャルが「ベルサイユのばら」(75年)をスマッシュヒットさせたが、大きなうねりとはならず、フォーリーブスと同じ1978年に解散した。1977年、14歳だった川﨑麻世(60)が「ラブ・ショック」でデビューしたものの、やはり伸び悩んだ。
売れっ子が不在時のジャニー氏が何に打ち込んでいたかというと、麻雀だ。東京・六本木のテレビ朝日旧社屋の近くにあった麻雀荘で頻繁にやっていた。麻雀は晩年まで唯一の趣味だった。贅沢には興味がなかったらしく、車も国産で古かった。
麻雀相手はテレビ局幹部や芸能事務所経営者、同幹部。ジャニー氏は麻雀が弱く、負けてばかりだったという。また、麻雀仲間はジャニー氏を「ジャニ子」と呼んでいた。それを本人は嫌がっていなかったという。
「当時からジャニー氏は少年にしか興味がないことをみんな知っていた。本人も性的嗜好を隠さなかった。だから、このあだ名が付いた。麻雀中は『ジャニ子、それ当たり』というふうな会話が繰り広げられていた」(芸能事務所代表)
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