阪神・岡田監督はかつてオリックスをいきなり“紙一枚”で解任の過去 「アホらしくて何も聞かなかった」と自著で語った因縁の対決なるか
今もオリックスに残る“岡田遺産”
「オリックス監督就任の橋渡しをしたのは、故・中村勝広氏です。阪神OBの中村氏は掛布雅之氏(68)には『お互い、千葉県の出身者。オレはその先輩』、岡田氏にも『早大の先輩』と言って、2人の間を取り持ってきました。岡田監督は08年の阪神監督退任後も、監督をやりたいと思っていました。オリックスの監督、ゼネラルマネージャー、シニアアドバイザーなども歴任した中村氏が、岡田氏を呼び寄せたんです」
当時を知る元阪神スタッフはこう言う。早稲田大学と阪神の大先輩が骨を折ってくれた経緯を知らないはずがない。それでも、「もうアホらしく」とハッキリ書いているのだ。その岡田監督の眼に映った「アホらしく」とは、こんな光景だったという。
「3年契約最終年だった12年のシーズンは成績不振で、9月22日にはBクラスが確定。球団は来季は契約しない方向で話が進んでいたのですが、シーズン終了までは指揮を執ることになっていたんです。しかし、同月25日、本拠地のソフトバンク戦の前に球団はいきなり岡田監督の休養を発表、要はクビです。球場に来た岡田監督はユニフォームに着替えずそのまま自宅に帰っていきました。私服で会見に応じた姿は印象的でしたね。球団は解雇通達書を渡すことを、事前に知らせていたのではないでしょうか」(前出・元阪神スタッフ)
その年にはチーム内でこんなやり取りもあった。連敗に次ぐ連敗で、岡田監督は選手たちに聞いた。「どんな気持ちで野球をやってる?」と。すると、年長の選手が意を決して、「監督が怖くて、みんな萎縮して打てません」と答えたという。
岡田監督もショックだったはず。選手と野球観が合わなかったようだ。
「12年シーズンは一軍と二軍の入れ替えが頻繁に行われました。昇格して、実際に結果を残した選手も1週間も待たずに降格されており、こんなに選手の入れ替えが激しい野球は、阪神の第一期政権でも見られませんでした」(前出・同)
しかし、岡田監督の置き土産は今もオリックスで活きている。岡田体制となって最初に臨んだ09年10月のドラフト会議で2位指名したのは、比嘉幹貴(40)。ルーキーイヤーからリリーフで24試合に登板し、14年目の今季も31試合に登板している(9月26日時点)。大学、社会人を経験した“変則サイドスロー”であり、岡田監督の方針で指名が決まったとされる。
「比嘉は変則投法の社会人投手で、当時すでに26歳。どの球団も伸びしろを感じなかったようです。でも、岡田監督は『中継ぎが足らない? なら、ドラフトで』と言って、指名が決まったんです。平野佳寿(39)をクローザーに配置換えしたのも岡田監督です。岡田貴弘(35)の登録名を『T-岡田』にし、金子千尋(39=現・日本ハムコーチ)が活躍し、西勇輝(32=現・阪神)が先発ローテーション入りしたのも岡田時代です」(ベテラン担当記者)
もっとも、今のオリックスには当時を知らない選手のほうが圧倒的に多い。岡田監督が自著で“恨み節”を語ったのは14年で、60代の今は違う感情を抱いているのかもしれない。
[2/3ページ]