“世界ヘビー級王座”を目指した「西島洋介さん」が明かす“名物会長”との知られざる絆 伝説の多くは“演出”でも「師匠には感謝しかない」

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“イロモノ扱い”に悩まされた日々

 人気が出たことで、街中で声をかけられることも増え、「素直にうれしかった」と顔をほころばせる。その一方で、衆目を集めるようになったからこそ、キャラクターありきの打ち出し方に悩んだと打ち明ける。

 ましてや、ボクシングは結果がともなわなければならない。人気があるからといって、メインイベントを務めることができるわけではない。勝つことでランキングは上がり、王座挑戦へと近づいていく。そのため、ときに“かませ犬”と呼ばれる格下のボクサーをブッキングすることで、戦績を積んでいくことも珍しくない。

「引退した今だからこそ当時の状況がよく分かるんです。お金回りを良くしなければいけない上にで、私を選手としてステップアップさせていかなければいけない。治師匠はものすごく大変だったと思います。ですが、あのとき、戦うことだけしか頭になかった自分からすると、そこまで考えられる余裕はなかった」

 周囲からは、「弱い相手を選んで戦っている」という雑音が大きく聞こえ始めた。「徐々にフラストレーションが溜まっていった」と、西島さんは披歴する。

「自分自身、実力がともなっていないということを痛感していました。だからこそ、強くなりたかった。ですが、話題ばかりが先行し、イロモノのように扱われる状況が続いた」

 それでも1996年、プロ17戦目でOPBF東洋太平洋クルーザー級王座に輝いた。JBC未公認の団体だったため、国内では正式な世界王者として認められなかったが、翌年にはラスベガスでブライアン・ラスパダ(米国)と戦い、WBF世界クルーザー級王座を獲得した。間違いなく、日本ボクシング界重量級のパイオニアであり、闘い抜いた。

 だが、皮肉にもこの王座獲得が、オサムジムとの亀裂を決定的なものにしてしまう。

「治師匠がいなければ、今の自分はいません」

 未公認であるがゆえにJBCからWBF王座を返上するよう要求を受けると、西島さんは拒否。ところが、オサムジムは承諾し返上してしまう。「納得がいかなかった」。西島さんは袂を分かち、アメリカに拠点を移すと、リングネームも「洋介山」から本名の「洋介」に改めた。度重なるひじの故障もあり、アメリカでは思うように戦うことができなかったが、後悔はしていないと語る。

「師匠からは、“日本でお金を稼ぐことができるのに、なぜ無理をしてアメリカに行くのか?”と引き留められました。でも、強さではなく話題にばかり焦点が当たることに嫌気がさしていた。実力で勝負したかった。やっぱりタイソンにあこがれて、この世界を目指したわけですから」

 決別こそしたが、今でも西島さんは治会長のことを「師匠」と呼び続ける。引退後、アメリカから帰国しオサムジムへあいさつへ行くと、自分のポスターがまだ貼られていたという。

「師匠は、決して褒めて伸ばすタイプではなかったです。“なにくそ、負けてたまるか”という気持ちを芽生えさせて指導するタイプでした。試合前になると“お前は弱い。絶対に負ける”と言われるので、闘争心に火が付きました(笑)。僕を強くしてくれたことは事実。感謝しかありません」

 懐かしそうに目を細めて、西島さんが振り返る。話題の人となったとき、大手ジムから「うちに来ないか?」と誘われたことがあったそうだ。

「親身になって自分のことを考えてくれました。治師匠を裏切るという発想はまったくなかったです。治師匠がいなければ、今の自分はいません」

 最期まで二人の関係が修復することはなかった。ともに、プライドとこだわりを持って戦った結果だろう。2020年、渡辺治会長は泉下の人となった。だが、師弟の絆はつながったままだ。

※以下、後編へ続く。

我妻弘崇(あづま ひろたか)
フリーライター。1980年生まれ。日本大学文理学部国文学科在学中に、東京NSC5期生として芸人活動を開始。約2年間の芸人活動ののち大学を中退し、いくつかの編集プロダクションを経てフリーライターに。現在は、雑誌・WEB媒体等で幅広い執筆活動を展開。著書に『お金のミライは僕たちが決める』『週末バックパッカー ビジネス力を鍛える弾丸海外旅行のすすめ』(ともに星海社)など。

デイリー新潮編集部

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