秋篠宮家のプリンセスに元気がないのは何故か 元宮内庁幹部は「皇嗣家になったことも影響」

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国民的アイドルだった眞子さん

「早くして!」

 秋篠宮さまが眞子さん結婚直後の自身の誕生日会見で1番の思い出と述べられた07年8月のマダガスカル2人旅。15歳の眞子さんは現地で同行中の女官を、こう叱られた。

 おっとりしたイメージだったものの、意外な一面が初めて垣間見えた。通常、皇族の映像に音声はつかないが、実はチェックミスで声が残り、テレビで放送されてしまったのだ。朝5時台の早朝番組のため全く話題にはならなかったが、筆者も驚いたものだ。

 1991年10月に上皇ご夫妻(当時は天皇皇后両陛下)の“待望の初孫”として誕生した眞子さんは、当時はまさしく国民的アイドルだった。2017年9月に小室圭氏と婚約内定会見に臨むと「どうぞお幸せに」といった祝福の声がSNSで相次ぐ。まさに幸福の絶頂にあったが、眞子さん自身も自らの結婚騒動を契機に厳しい状況に直面する。

「誤った情報がなぜか間違いのない事実であるかのように取り上げられ、辛く、悲しい思いをいたしました」

 婚約者だった小室圭氏の母親の借金疑惑浮上で口火が切られた結婚騒動は、婚約内定会見から4年余となる21年10月26日、ようやく結婚を実現させて終止符が打たれた。紆余曲折の経緯は今さら述べるまでもない。婚姻届が提出されたこの日、2人は記者会見に臨み、眞子さんは複雑性PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断されたことを明かした上で、SNS上の声に本音をぶつけられた。

 だが、その局面が変わることはなかった。国民的アイドルだった幼少期からはあまりにも隔世の感があった。

全国に広まった「紀子さんスマイル」だが……

「お導きを賜りながら、自らの責務に向けて一層努めて参りたい」

 1990年1月12日、一般の結納に当たる皇室の伝統行事・納采の儀を終えた紀子さまは正式に婚約者となったことを受け、こうコメントを発表された。この日からさかのぼること半年。昭和天皇の崩御で国全体がふさぎ込む中、皇室に明るい話題がもたらされた。89年9月12日、皇室会議で秋篠宮ご夫妻(当時は礼宮さまと川嶋紀子さん)のご婚約が決まったのだ。

 川嶋家は故辰彦氏が学習院大で教鞭を執っていた関係から同大教職員用共同住宅で暮らしていたため、質素なお暮らしぶりをたたえ「3LDKのプリンセス」と呼ばれた。

 これを境に90年6月の結婚の儀まで、紀子さまをテレビで見ない日はほぼなかった。当時はワイドショー全盛期。まるで芸能人扱いで、日課だったジョギングのご様子が連日のように放送された。時折お見せになる、恥じらうような笑顔は「紀子さんスマイル」と名付けられた。ご結婚後も順風満帆の日々だった。だがその紀子さまにも様々な意見が出ている。きっかけはやはり眞子さんの結婚騒動だった。

「長女の気持ちをできる限り尊重したい」

 2020年9月、紀子さまは自身の誕生日に際して発表した文書で、眞子さんの結婚についてこう言及された。“尊重”というキーワードにSNSの“住人”たちは敏感に反応した。

「結婚を許すのか」

「国民の血税を使ってわがままに育てたのは母親だ」

 などという声が拡散されたのだ。とばっちりとも言える反応は、それだけ眞子さんの結婚に否定的な意見が多かったことを意味した。

 平成期、羨望の眼差しが向けられた秋篠宮家のプリンセス3人は、令和となり思わぬ状況に直面している。前出の元宮内庁幹部はこう指摘する。

「お三方が一転して逆風下にあるのは、批判に対する小室夫婦の木で鼻をくくったような姿勢が反感を買ったことが原因でしょう。一宮家から皇嗣家となり、責任も注目度も高まったことも影響したはず。佳子さまは最近ではご公務に励まれていますが、ご公務への姿勢の変化も1人暮らしで自立しようとされているのも、様々な理由で結婚に4年も費やした姉のケースを意識してのことではないでしょうか」

 逆風が宮家全体に及び、若者を中心に広がる皇室への無関心や悠仁さまと愛子さまを比較するような議論を助長する結果になれば、残念なことだ。

大島真生(おおしま・まなぶ)
1968(昭和43)年東京都生まれ。新聞記者。産経新聞東京本社社会部で警視庁捜査一課担当、警視庁サブキャップ、同キャップ、警察庁担当、宮内庁キャップ等を歴任。著書に『公安は誰をマークしているか』『愛子さまと悠仁さま』(いずれも新潮新書)等。

デイリー新潮編集部

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