【どうする家康】朝鮮出兵は秀吉の罪だが、加藤清正は悪者でない理由
同時代に「唐入り」と呼ばれた豊臣秀吉による朝鮮出兵が、NHK大河ドラマ『どうする家康』で描かれる。第38回(10月8日放送)はタイトルも「唐入り」である。
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学校で文禄・慶長の役として習うこの戦争は、文禄元年(1592)から慶長3年(1598)にかけて行われた。侵略戦争だったことはいうまでもないが、目的は朝鮮半島ではなく明の征服だった。明へと出兵するには朝鮮半島を経由しなければならないので、秀吉は朝鮮に対し、日本に服属して明への先導役を務めるように要求したが、当然ながら拒まれたため、朝鮮に攻め込んだのである。
秀吉がなぜ大陸進出を構想したのか。それについては諸説あるが、もっとも合理性が高い動機は「大名たちに土地を与えるため」というものだろう。
秀吉は全国統一の過程で大量の武士団を抱えた。全国の大名が秀吉に臣従したのだから当然で、このため天正18年(1590)の小田原征伐には、22万もの軍勢を動員することができた。そのときは北条の240万石もの領国を没収できたからよかったが、全国統一が成ったのちは、国内には恩賞として与える土地がない。そこで、対象を大陸に求めたというわけである。
もう一つは、主君であった織田信長からの影響が考えられる。イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスは『日本史』に、信長の野望について「毛利を平定し、日本六十六カ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分け与える考えであった」と書く(松田毅一・川崎桃太訳)。
これをイエズス会の野望を記したものだと解する専門家もいる。だが、後進の布教に役立てるために、日本人には読めないポルトガル語で書いた文書に、信長に託してみずからの野望を書く必要性があったとは到底考えられない。貿易の重要性を理解していた信長が、貿易の再開になかなか応じない明の征服を口にしたことがあった、と考えるほうが合理的である。そして、秀吉もそれに倣おうとしたのではないだろうか。
しかし、秀吉の目的はなんであれ、出兵させられた大名と兵員は、気の毒だったとしか言いようがない。
一時は朝鮮半島全体を席巻した日本軍
秀吉は約16万もの軍勢を編成し、天正20年(1592)春以降、朝鮮半島に続々と出兵させた。その後しばらくは、火縄銃をはじめ装備に優る日本軍の快進撃が続いた。
小西行長率いる一番隊1万7,000は4月12日に釜山に上陸すると、釜山城を攻略して北上。4月27日、忠州で迎え撃った朝鮮軍に一斉射撃を浴びせて壊滅させ、その報告を聞いた朝鮮国王が、首都漢城を放棄して平壌に移ったので、一番隊は5月1日、漢城に無血入城した。
加藤清正率いる二番隊も4月17日に釜山に上陸し、後続の部隊も続々と上陸。8つの部隊が5月8日までに漢城に入城している。そして6月16日には、一番隊が平壌を占領。朝鮮国王は鴨緑江方面に逃げるしかなくなった。また、二番隊も咸鏡道に進み、そこに避難していた朝鮮の王子2人を捕虜にしている。
こうして、日本軍はいまの北朝鮮の最北部にまで攻め込み、朝鮮半島全体を席巻したのだが、その勢いは長くは続かなかった。海上では、李舜臣率いる朝鮮水軍に苦戦し、兵糧の海上輸送が困難になってしまった。朝鮮側が義勇軍を組織して抵抗し、物資の輸送路も寸断されるなどした。さらには、朝鮮国王からの支援要請を受けた明軍も押し寄せ、かなりの被害を受けながら、日本側の勢いを削いでいった。
だが、いずれにせよ、日本軍との戦いで朝鮮の国土が荒廃し、多くの人命が損なわれたのは事実である。だから、いまもなお朝鮮半島で、加藤清正らが悪人として評判が最悪なのも致し方ないが、清正らが置かれていた位置を考えると、そういう評判を得たこと自体が気の毒でならない。
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