小野伸二引退 時代を先取りした“悲運の天才”、日本で評価が低いのはなぜか
負傷と復活
シャビ・エルナンデス(現・バルセロナ監督)率いるスペインは強かった。開始5分にFKから先制されると前半だけで3失点。後半にも1点を失い0-4の完敗だった。しかし、FIFA主催の国際大会で準優勝という快挙を達成したことは間違いなかった。
そして「好事魔多し」とはこのことを言うのだろう。ワールドユースから3カ月後の7月4日、小野はシドニー五輪のアジア地区1次予選、フィリピン戦で左膝の靱帯断裂という大ケガを負ってしまう。
すでに日本は、アジア1次予選の突破を決めていた。小野も無理をしたわけではないし、前述したように無理をするタイプのプレーヤーではない。しかし、34分、後方からのバックチャージに国立競技場のピッチにうずくまると、そのまま担架で運ばれてグラウンドを去った。
11-0というゴールラッシュも、小野の負傷により後味の悪い勝利となった。そして小野を失った浦和は、J2リーグへと降格した。2000年もコンディションが戻らず、9月14日から始まったシドニー五輪のメンバーに小野の名前はなかった。
小野が復活したのは10月にレバノンで開催されたアジアカップで、交代での出場が多かったものの、チームには名波と中村俊輔という稀代のファンタジスタがいた(中田英寿はローマでの活動を優先したため参加を辞退)。初戦でサウジアラビアに4-1と圧勝すると、決勝でもサウジアラビアを1-0で退け2度目の優勝を飾る。日本の華麗な攻撃サッカーは「アジアカップ史上最強チーム」と賞賛された。
天才のベルベットパス
さらに、翌2001年には日本で開催されたコンフェデレーションズカップでも準優勝を果たし、完全復活を印象付けた。
小野は1995年のU―17世界選手権にも出場していたため、98年のフランスW杯、99年のワールドユースに続き、FIFA主催の世界大会すべてに出場したことになる。中田英寿に次いで2人目であり、2002年日韓W杯で稲本潤一も達成した。
この年のJ1リーグ第1ステージ終了後、小野は満を持してオランダのフェイエノールトへ移籍した。5月には日本人として初めてUEFAカップ優勝を経験。新シーズンとなる8月にはチャンピオンズリーグの予備予選でトルコのフェネルバフチェと対戦し、ホームとアウェーの両方で決勝点を奪いチームを本戦へ導いている。
こうした活躍が評価され、2003年にはAFC(アジアサッカー連盟)から02年度のアジア年間最優秀選手賞を贈られた。
左右両足から繰り出されるパスは正確でありながらとても繊細で、受け手にとって「優しいパス」であることから、日本では「エンジェルパス」、オランダでは「ベルベットパス」とも言われた。天才であることは疑う余地がない。にもかかわらず、日本での評価はそれほど高くないのは残念でならない。
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