小野伸二引退 時代を先取りした“悲運の天才”、日本で評価が低いのはなぜか

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「清水商に天才プレーヤーがいる」という噂は聞いていた。当時はサッカー専門誌のデスクを務めていたため、天才・小野伸二を見たいからといって清水フェスティバル(全国高校サッカー親善試合)やインターハイに行くことはできない。年間を通じて高校サッカーを担当する記者がいるからだ。

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 唯一のチャンスは年末年始に東京近郊で開催される全国高校サッカー選手権だったが、小野が率いる清水商は、1995年、96年と静岡県予選を勝ち抜けず、全国デビューは幻となった。

 彼のプレーを初めて見たのは97年、高校3年の夏に開催された全日本ユース選手権決勝、本山雅志を擁する東福岡高との一戦だった。西が丘サッカー場(現・味の素フィールド西が丘)のピッチで背番号8をつけた小野を初めて見た印象は、「自然体」というものだった。

 ボールを止める、蹴る、運ぶ(ドリブル)といった基本動作のすべてが流れるように淀みなく、一切の無駄がない。

 同じ天才でも、中田英寿は体幹の強さで相手選手を弾き飛ばしたし、中村俊輔なら回転をかけたシュートを放つ際に渾身の力を全身にみなぎらせる。しかし、小野はすべてのプレーに力みがなく、風にそよぐ柳のように「自然体」でサッカーを楽しんでいた。

 小野はPKからゴールを決めたものの、試合には2-3で敗れて準優勝に終わり、3年生でも高校選手権の出場は叶わなかった(東福岡はインターハイと高校選手権、そして全日本ユースの高校三冠を史上初めて達成)。そんな小野にはJの13クラブがオファーしたが、小野は浦和レッズを選ぶ。

 当時、鹿島アントラーズのスカウトを担当していた平野勝哉は、同学年の本山と帝京の中田浩二を獲得して黄金時代を築くが、「小野はてっきり地元の清水エスパルスに入ると思ってアプローチしなかった」ことを後年悔やんでいた。

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