ビートたけしの師匠、最後の浅草芸人…焼死した深見千三郎とはどんな芸人だったのか

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「バカヤロー」に込められた意味

 さて、ここで遅ればせながら深見の経歴について触れたい。

 北海道北部の漁村で1923(大正12)年に生まれた。屋根葺き職人の父は、元は一座を率いたこともある芸人だったという。その血が流れていたのか、姉は上京して「美ち奴」という名前の芸者歌手になり、「あゝそれなのに 」というレコードも出した。

 その姉を頼り、1938~1939(昭和13~14)年ごろ、深見も上京。浅草に入り浸るようになった。姉の紹介で時代劇の大スター・片岡千恵蔵(1903~1983)に弟子入り。京都の太秦で役者修業のスタートを切る。

 1年ほどで浅草に戻った深見は、浅草六区にあったオペラ館の青年部に入る。だが、戦争の影が忍び寄り、軍需工場に徴用。作業中の事故により機械に左手が巻き込まれ、4本の指の第2関節から先を切断。役者にとっては致命的な傷を負った。

 1945(昭和20)年の敗戦を機に、深見は一座を旗揚げし、各地で巡業したという。けがをした左手は、観客に気づかれないよう相当神経を使ったに違いない。やがて時代モノであれ、現代モノであれ、自在にこなす役者になった。

 だが、女性問題を起こしては、追われるようにそこを立ち去る。その繰り返しだったが、やがて浅草のストリップ劇場「ロック座」の座長となり、浅草に腰を落ち着けるようになった。そこで可愛がったのが東八郎(1936~1988)だったが、フランス座に移り、たけしを育てたのはもう少し先の話である。

 いずれにしても、スピード感あふれる突っ込みと毒舌、客とケンカをしながら笑いをとる芸は、浅草芸人の誰からも一目を置かれるようになった。

 その深見をNetflix映画「浅草キッド」(2021年12月配信)で、人情たっぷりに好演したのは大泉洋(50 )。深見の口癖の「バカヤロー」には肯定も否定もあり、さまざまなニュアンスがにじみ出ていた。大泉は言う。

「(深見さんは)照れ屋で滅多に人を褒めない。うれしくても『調子に乗るな、バヤカロー!』と怒鳴ってみたり、心とは逆のことを言ってしまう、まさに不器用な昭和の芸人さん。僕とは生き方がまったく違うけれど、『こんな風に言えたらかっこいいな』という憧れはありますね」

 ダンディズムと言ったらいいのだろうか。渥美清(1928~1996)にしろ、萩本欽一にしろ、浅草出身の芸人は、どこかしら爽やかな格好良さというのを身にまとっていた。浅草を笑いのるつぼとし、駆け抜けていった先人たちの息づかいは、脈々と次世代に受け継がれていると言っていいだろう。

 次回は全身白ずくめで横浜の街角に立っていた娼婦・ハマのメリーさん(1921?~2005)。姿を見かけた人は数え切れない。写真も残っている。だが、実像に迫ろうとするほど遠ざかってしまう謎に満ちた女性。通称「ヨコハマメリー」。故郷は中国地方だったというが、彼女は一体何者だったのか。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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