社名変更しても今から消せないグループ名 「あおい輝彦」がいたアイドルグループ「ジャニーズ」の知られざる5年間
ジャニーズ事務所は10月2日午後2時から都内ホテルで「今後の弊社運営に関して」会見する。社名変更の発表も含まれるというが、それに伴い「ジャニーズJr.」「関西ジャニーズJr.」といった名称も変更する方針という。だが、同社にとって最初のアイドルグループ「ジャニーズ」の名を消し去ることは永遠にできない。
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【写真を見る】「ジャニーズ」アイドル第1号の「あおい輝彦」 デビュー当時の初々しい姿
歌って踊れる男性アイドルグループとしてジャニーズが結成されたのは1962年4月。メンバーは、真家ひろみ(1946~2000)、飯野おさみ(77)、中谷良(76)、そして青井輝彦(後の「あおい輝彦」=75)の4人だった。
あおい輝彦はグループ解散後の70年、テレビアニメ「あしたのジョー」(フジテレビ)の主人公・矢吹丈の声優に抜擢され、76年にはシングル「あなただけを」がミリオンヒット、映画「犬神家の一族」(76年公開)の佐清役やドラマ「水戸黄門」(TBS)では88年から12年間にわたり“助さん”こと佐々木助三郎役を演じるなど、その活躍を覚えている人は少なくないだろう。
だが、そもそもはアイドルだったのだ。ちなみに、「青井輝彦」では堅いからと、「あおい輝彦」に改名を勧めたのは、ジャニー喜多川氏(1931~2019)だそうだ。芸能記者は言う。
「あおいらは元々、東京・渋谷の代々木周辺に住む少年野球チームのメンバーでした。彼らを指導していたのが、当時アメリカ大使館で通訳を務め、在日米軍施設ワシントンハイツ(現在の代々木公園)に暮らしていたジャニー喜多川氏だったのです。決して強くはなかった少年野球チームは、ヘターズやエラーズなどと呼ばれていたそうですが、それでは格好が悪い。『ジャニーさんが監督なんだし、ジャニーズでいいんじゃない』と、あおいが提案したことでチーム名がジャニーズになったと言われています」
ある時、雨で野球の練習ができなくなった。そこでジャニー氏は映画「ウエスト・サイド物語」(61年公開)を見に誘うと、少年たちは映画に感動。野球の練習はミュージカルの練習に変わり、選抜された4人のグループはそのまま「ジャニーズ」と名乗った。
後にあおいは、ジャニーズについてこう語っている。
所属タレント第1号
《“ジャニーズ”は、歌だけでなく踊ったから認められたんです。男が踊ったから、おじさんもおばさんもびっくりした》(女性セブン:76年10月13日号)
まさしく、ジャニーズアイドルの第1号だ。
「62年、NHKの『夢であいましょう』のバックダンサーとして芸能界デビューしました。当時のアイドルと言えば御三家(橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦)の時代ですから、歌って踊れるアイドルは人気となりました。そして、売り出し方もすごかった。バックダンサーとして最初のひと月はシルエットしか映さなかったそうです。視聴者が『誰?』と気になるようになってから、“THIS IS ジャニーズ!”と売り出した。プロデューサーとしては大したものだと思います」
もっとも、彼らが当初所属したのは、タレント養成所の新芸能学院だった。64年6月にジャニー氏がジャニーズ事務所を創業すると、ジャニーズは第1号の所属タレントとなった。
64年11月、彼らは「若い涙」でレコードデビュー。翌65年には「NHK紅白歌合戦」にも出場する。「ジャニーズナインショー」(日テレ)という冠番組をもつまでになるが、66年8月、本格的なダンスレッスンをするためジャニー氏と共に渡米。帰国したのは翌67年1月だった。
「67年4月に後輩グループのフォーリーブスが結成されていたこともあり、ジャニーズの解散は近いのではないかと噂されていました。ちょうどその頃、彼らは法廷に立たねばならなくなったのです」
67年9月11日、ジャニーズの4人は東京地裁の証言台に立った。
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