「清原和博」はバットを投げつけ、「達川光男」は審判を騙そうとした…プロ野球、死球を巡る“人間ドラマ”
ついた異名は「特攻隊」
清原に抜かれるまで通算166死球で歴代トップだったのは、竹之内雅史(西鉄→太平洋→クラウン→阪神)である。
西鉄時代の1970年5月24日の阪急戦では、初回に先頭打者として、いきなり山田久志にぶつけられると、リリーフの2投手からも死球を受け、NPB史上最多の1試合3死球を記録(2008年に阪神・関本賢太郎も記録)。「阪急の人たちは僕が憎いのですかね」と憤慨した。
だが、竹之内は前年もリーグトップの11死球で、同年も含めて阪神移籍1年目の1979年まで11年連続二桁死球を記録し、死球王になること7度。“特攻隊”の異名どおり、死球を恐れずに踏み込んだことが、激増につながったようだ。
この竹之内とほぼ同時期に、現役最後の登板で「狙って」相手打者にぶつけ、当時歴代最多の通算144死球を達成した渡辺秀武(巨人→日本ハム→大洋→ロッテ→広島)がいたが、“死球王”と“与死球王”の対決はなぜか死球ゼロ。
筆者は、広島スカウト時代の渡辺氏に、この謎について尋ねたことがある。答えは「あいつはオープンスタンスの変な構えをしていたから、近めに投げなくても抑えられた」とのことだった。
通算2215試合連続出場の日本記録を持つ“鉄人”衣笠祥雄(広島)も歴代3位の通算161死球と常に死球がついて回った。
1979年8月1日の巨人戦で西本聖から死球を受け、左の肩甲骨を骨折したにもかかわらず、連続出場記録を継続するため、翌日の巨人戦に代打で出場し、3球すべてフルスイングの三振に倒れたエピソードはよく知られている。
1976年8月31日の中日戦では、3回に打者一巡して2打席連続死球を受け、NPB史上初の1イニング2死球を記録したが(2007年にヤクルト・ガイエルも記録)、ふだんは温厚な紳士も2度目の死球の直後には、「打ち気十分だったので、ついカーッとした」と、ヘルメットを叩きつけて一塁に向かっている。
広島といえば、松本奉文も2005年に代打などで4打席連続死球を記録し、プロ野球の「B級ニュース史」に名を残している。
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