【どうする家康】佐藤隆太演じる豊臣秀長の早すぎる死は兄・秀吉にどんな影響を与えたか

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恐るべき秀次事件も防げたはず

 秀長のサポートなしに、秀吉は天下を取ることができただろうか。むろん、明確な回答を導くことは不可能だが、秀長におおいに助けられ、秀長のおかげで大名たちを取りまとめることができていたのはまちがいない。

 事実、秀長の没後、秀吉の暴走は止まらなくなった。秀長が没して1カ月後の天正19年(1591)2月28日には、秀長と並んで家臣団の取りまとめ役だった千利休を切腹させ、文禄元年(1592)に朝鮮出兵を断行。同4年(1595)には秀次事件を起こしている。

 天正19年(1591)9月、側室の淀殿が産んだ嫡男の鶴松が死去すると、秀吉は姉の子の秀次を後継者にすると決め、同年12月に関白職を譲った。ところが、文禄2年(1593)8月に淀殿が拾(のちの秀頼)を産むと、秀吉にとって秀次の存在は、にわかに邪魔になっていく。そして文禄4年(1595)6月末、謀反の疑いが持ち上がった秀次は切腹に追い込まれ、さらには秀次の子供と正室、側室、侍女、乳母の計39人が斬首された。また、7人の家老も切腹を命じられた。

 この秀次事件は、ただでさえ少ない豊臣一族の数を減らしたうえ、大名たちのあいだに動揺を生んだ。秀次と関係が深い大名が秀吉の不興を買うなどし、豊臣家臣団のバランスが崩れ、家康がつけ込む余地ができたことは疑いない。

 秀長は秀次との関係が良好で、秀次が小牧・長久手の戦いでの失態を秀吉から叱責されると、のちの従軍で秀長を助けて秀吉の信頼を取り戻す力添えをした。だから、秀次は秀長が亡くなる少し前に談山神社(奈良県桜井市)を訪れ、病気回復を祈願している。

 秀長が長生きしていれば、秀次事件は起きなかったのではないだろうか。秀長がそのように力を働かせれば、結果的に、秀吉にとっては好都合だったはずである。ただし、家康にとっては不都合だっただろう。

香原斗志(かはらとし)
歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史を中心に幅広く執筆するが、ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論家としても知られる。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』など。

デイリー新潮編集部

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