【どうする家康】佐藤隆太演じる豊臣秀長の早すぎる死は兄・秀吉にどんな影響を与えたか

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これからというときに病没

 その間、秀長の献身に感謝する秀吉から、少しずつ領土を与えられた。天正13年に紀州を制圧したのちには、紀伊(和歌山県)や和泉(大阪府南西部)などに64万石の所領を与えられ、同14年には四国攻めの功績を評価されて大和(奈良県)を加増され、石高の合計は110万石に達した。そして、大和郡山城(奈良県大和郡山市)に入り、100万石の大名の居城にふさわしい規模に改修した。

 官位もどんどん上昇。天正13年(1585)10月に従四位下参議に任ぜられると、同14年(1586)10月には従三位権中納言、同15年(1587)8月には、徳川家康と同時に従二位権大納言に昇進。以後、大和大納言と呼ばれた。

『どうする家康』では、秀吉への臣従を決意した家康が大坂に到着した際、秀長の屋敷に宿泊すると、そこに翌日謁見する予定の秀吉が予告なしに現れた場面が描かれた。これは実際、家康の家臣の松平家忠が書き残した『家忠日記』や『徳川実紀』にも記されているエピソードである。

 ところが、秀長はそのころから体調を崩すようになるのである。『多聞院日記』などによると、天正14年(1586)ごろから、有馬温泉(神戸市北区)などにたびたび湯治に通ったことが記されている。天正18年(1590)からは病気がかなり悪化し、3月からの小田原攻めに参加できなかった。そして同19年(1591)1月22日、大和郡山城内で病没した。享年52。不安定な東北を除けば天下が平定され、ここからこそ秀長の手腕が必要とされる、というタイミングだった。

 家督は秀吉の姉の子(秀次の弟)で、秀長の養子になっていた秀保が継いだが、4年後の文禄4年(1595)4月、秀保がわずか17歳で没したため、断絶してしまう。

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