【どうする家康】佐藤隆太演じる豊臣秀長の早すぎる死は兄・秀吉にどんな影響を与えたか
秀吉の右腕として常に戦果を挙げた
生まれは天文9年(1540)だから、天文6年生まれの秀吉より3歳年下で、母は秀吉の生母の仲(のちの大政所)だが、父は秀吉の父の弥右衛門か、その死後に仲が再婚した竹阿弥なのかわかっていない。いずれにせよ、尾張国(愛知県西部)の中村(名古屋市中村区)に、百姓の子として生まれたと考えられる。
名は小一郎で、10代前半で家を飛び出した兄の秀吉が織田家に仕官してから、武士になる決意をしたといわれる。以後、秀吉の補佐役として、数々の合戦に従軍しながら兄を助けてきた。天正元年(1573)に秀吉が織田信長から、滅亡した浅井氏の旧領を与えられて、琵琶湖畔に長浜城を築くと、その城代を務めたりもした。
天正2年(1574)には、秀吉の代理として長島一向一揆の討伐に出陣し、丹羽長秀や前田利家らとともに戦った。天正4年(1576)には、のちに秀吉に仕え、さらには家康の腹心になり、数々の城の設計に携わったことでも知られる藤堂高虎が、秀長に仕官している。その後、天正5年(1577)と同8年(1580)の2度におよんだ但馬(兵庫県北部)攻めでは総大将を務め、秀吉との見事な連携で勝利を呼び込んだ。
天正10年(1582)の本能寺の変で信長が討たれたのちは、むろん明智光秀を倒した山崎の戦いや、翌年の柴田勝家との賤ケ岳の戦い、同12年(1584)に徳川家康と戦った小牧・長久手の戦いにも参戦。秀吉の天下獲りへの道のりを支え、天正13年(1585)の紀州(和歌山県)攻めでは秀吉の副将を、同年6月の四国攻めでは病気の秀吉に代わって、総勢10万の軍勢の総大将を務めている。さらに、天正15年(1587)の九州攻めでも、日向(宮崎県)方面の総大将として先鋒を務めた。
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