「あなたは息子ではありません」 逝去の猿翁、香川照之との“和解”は思い込みだった?
澤瀉(おもだか)屋の歴史同様、83年の人生は起伏に富んだものだった。舞台に新風を吹き込み、喝采を浴びる一方、私生活では醜聞も。晩年は、一門から追放した一人息子と劇的な和解を遂げたかにも見えた。しかし、死してなお、周囲にはわだかまりが残ったようで……。
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都内各所が秋祭りで賑わいを見せた週末。東京・目黒区にある斎場の周辺は、ひっそりと静まり返っていた。ごく身近な関係者だけがその場に迎え入れられ、梨園で一時代を築いた名優の亡きがらと対面することを許されていたという。
さる松竹関係者は、
「盛大な通夜葬儀や告別式が行われてしかるべきです。大立者の別れの場面にふさわしくない仕儀と相成ったのには、理由がある」
と、打ち明ける。その話に触れる前に、まずは波瀾に満ちた故人の生涯を振り返ろう。
最初の転機は
二代目市川猿翁、本名・喜熨斗(きのし)政彦は1939年12月9日、東京に生を受けた。慶應義塾中等部・高等部から、慶大文学部に進学。古典への造詣を深め、卒論のテーマには「近松門左衛門」を選んだ。
最初の転機は大学を卒業した翌年の63年、「二代目市川猿之助」を名乗った祖父から「猿之助」を受け継ぎ、「三代目猿之助」を襲名した時に訪れた。
歌舞伎に詳しい演劇記者が言う。
「三代目猿之助は船出から悲劇に見舞われます。襲名の翌月、初代猿翁となった祖父が亡くなり、さらにその同じ年に父親・三代目段四郎も他界。梨園での後ろ盾を一挙に失ってしまったのです。しかし、三代目猿之助は逆境にくじけなかった。自主公演の勉強会を立ち上げて、古典を掘り起こしていったのです」
こうした地道な努力が花開き、のちの「スーパー歌舞伎」の成功につながったというのである。
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