猿翁逝く 48年の思いを貫き「藤間紫」と60歳で結婚 香川照之と復縁し歌舞伎役者にするまでの全舞台裏

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猿翁の“夢”をぶち壊すことに

「勘祖(勘十郎)と死別し、澤瀉屋に本格合流してからの紫さんは、猿之助歌舞伎やスーパー歌舞伎のプロデュース協力などに大奮闘します」(前出・ベテラン演劇記者)

 三代目猿之助が還暦となる2000年に、節目として2人は正式に入籍する。入籍時、60歳と77歳のカップルだった。猿之助は《紫さんは踊りの師であり、猿之助歌舞伎の同志であり、公私ともに最高のマネージャーであり、頼もしい戦友であった》と述べている(前同「私の履歴書」より)。かつて宗家藤間流を支えた紫は、今度は猿之助の“反逆人生”を支えることになったのである。

 だが、“新婚”3年目の2003年11月17日。三代目は、博多座の「西太后」で紫と共演中、せりふ回しがおかしくなる。終演後に診察を受けたところ脳梗塞と診断され、そのまま入院。舞台は市川右近(当時)の代演で続いたが、三代目本人は、これ以後、いままでのような舞台姿を見せることは、なくなるのである。

「紫さんは献身的に闘病を支えていました。そして倒れた2か月後、香川照之のもとに子供が生まれます。男の子でした。いまの市川團子。三代目の孫です」(同)

 すると藤間紫は、猿翁と香川照之との関係修復をはじめる。共通の知人である演出家を通して話は極秘に進められ、場所も紫がセッティングした。しかしなぜ、藤間紫は、そのような仲介を買って出たのだろうか。

「もちろん、紫さんの純粋な思いがあったと思います。ご本人も、藤間家に嫁いで以来、家族関係では筆舌に尽くしがたい苦労をしてきました。それだけに、なんとか正式な父子にもどしてやりたいとの気持ちだったでしょう。しかし、それだけではなかったような気がします。これはあくまで推測ですが、紫さんには、今後の澤瀉屋一座に対する切実な危機感があったのではないでしょうか。というのも三代目は、脳梗塞だけでなくパーキンソン病も発症していたのです。それだけに、もう復帰は絶望的だとの確信を得たのだと思います」(梨園関係者)

 猿翁が復帰できなければ、誰が、どのような形で今後の澤瀉屋一門を率いていくのか。まさか、これほどのドル箱一座を解散させることはできない。これは一門や松竹どころか、歌舞伎界全体にもかかわる問題である。

「澤瀉屋のなかの誰に猿之助を継がせるか。だとしたら、右近(当時)しかいない。三代目がかねてから考えていた“血縁に頼らない一門”の完成形にもなる。しかし、さすがに江戸時代から血縁で続いてきた大名跡だけに、反対の声も出るでしょう」(同)

 だが、それ以上に大問題があるという。

「それは、三代目が作り上げてきた、スーパー歌舞伎など多くの舞台作品にまつわる上演権などの諸権利です。おそらく莫大な収入源でしょう。これを誰が相続するのか。通常は、いちばん近い血縁です。となると、まず香川照之ということになるわけです。しかし、彼は歌舞伎界の人間ではない」(前出・記者)

 そこで、紫による関係修復に、香川が積極的に乗ってきたばかりか、46歳で初めて歌舞伎の舞台に立つという、神仏をも恐れぬ行為に手を染めたというのだが……それは、かねてより猿翁が追ってきた“血縁に頼らない一門”の夢をぶち壊すことでもあった。

「そのことは、紫さんも感じていたと思います。何しろ、澤瀉屋の若手俳優には、日本舞踊を幼少期から習っていたものが少ない。そこで紫さんが徹底的に教え込んだのですから。しかし、これしか方法はなかったでしょう。要するに、澤瀉屋を存続させるために 、香川照之を操り人形のごとく、一門に送り込むしかなかったのです。三代目にはすでに強力な指導や決定を下せるほどの判断力もなくなっていたでしょうし」(同)

 2009年3月、その藤間紫も逝去する。

「築地本願寺での紫さんの告別式は、忘れることができません。夫である三代目が不自由な身体を押して喪主をつとめている、そのそばに香川照之がつきっきりでした。明らかに和解したことを周囲にアピールしていて、少し不自然でした。その一方、遺影をしっかり持っていたのは、長男・藤間文彦の娘で、当時高校生だった藤間爽子。その表情には、ある決意が秘められているようでした。現に彼女はいま、三代目藤間紫として、紫派藤間流を率いています。そして、出棺で棺を担いだのは、市川右近、市川笑也、市川段治郎ら、紫さんに鍛えられた、いわゆる“血縁でない役者たち”でした」(前出・関係者)

 その2年後、2011年9月。猿翁(三代目猿之助)、四代目猿之助(亀治郎)、中車(香川照之)の襲名と、團子の初舞台が発表された。跡継ぎがいなかったはずの三代目のもとへ、突如、名跡を継ぐ甥・亀治郎と、相続権をもつ実子・香川照之と孫がやってくる――その一方、師匠の代役をWキャストでつとめたほどの右近と段治郎、人気女形の春猿……彼らは澤瀉屋を去っていった(前編参照)。

 冒頭で紹介した「私の週間食卓日記」(2006年2月16日号)で、藤間紫は、こう書いている。

《1月22日/夜は帝国ホテル『北京』で、弟子たちと猿之助さんと大勢で賑やかに。(略)私はなまこが好きですが、猿之助さんは見るのも嫌がって、「あっちへやって」なんて言うんです。鶏とセロリの塩味炒め、胡瓜の中華風ピクルス、老酒少々。猿之助さんは食べるのも早いです》

 いまごろ、猿翁と藤間紫は、このころを懐かしみながら、天上で大宴会を開いていることだろう。

デイリー新潮編集部

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