猿翁逝く 48年の思いを貫き「藤間紫」と60歳で結婚 香川照之と復縁し歌舞伎役者にするまでの全舞台裏

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「戦後四十年の無念の涙がございます」

 1985年夏、驚くべき事態が発覚した。藤間勘十郎が、妻の紫に対する離婚調停を、東京家裁に申し立てたのだ。しかも慰謝料は3億5000万円!

 このとき、勘十郎は84歳。すでに人間国宝で文化勲章まで受章していた。妻の紫は62歳。しかし“驚くべき”は、年齢ではなかった。このときの離婚の理由を、当時の週刊新潮が詳しく報じている。

《勘十郎側の代理人である加藤豊三弁護士は、紫が昭和二十五年から十年間ほど新国劇の辰巳柳太郎と不貞な関係を持ち、歌舞伎の市川猿之助とは四十年から現在に至るまで続いていることを明らかにしたばかりか、二人いる子供のうち、長男の文彦さん(34)の実の父親は勘十郎ではなく辰巳柳太郎であるとまで言い切ったのである》(1985年8月15・22日号《藤間夫婦「不貞料三億五千万円」事件の勲章にならない醜聞》より)

 実は、藤間紫と三代目猿之助(当時)が、ただならぬ仲であることは、関係者の間ではすでに知られていた。しかし、まだ正式におおやけにはなっていなかった。

「このとき、20年前の1965年に浜木綿子とベタベタで結婚した三代目が、たった3年で離婚した理由が、ようやく表沙汰になったのです」

 とベテラン演劇記者が回想する。

「当時、28歳の三代目は、1200万円の慰謝料と、2歳だった息子・香川照之の成人までの養育費・月3万円を支払う条件で離婚を成立させました。養育費まで含めると、これはあのころの芸能人離婚慰謝料の最高金額です。しかし、正確な離婚理由については、双方とも口にしなかった。このとき三代目は、跡継ぎになるはずの香川照之より、紫さんを選んだのです」

 それが、離婚請求騒ぎで、むかしの辰巳柳太郎の件まで含めて、すべてが明るみに出た(たしかに藤間紫は、一時、辰巳の新国劇に出演していた)。長男の実父が辰巳だとの怪情報まで。

 藤間紫は袋小路に陥った。それでも週刊新潮の取材に堂々と、

《「主人に三十五年の怒りがあるなら、私も戦後四十年の無念の涙がございます」》(前同号より)

 と、まるで新派の決めセリフのような名コメントを残している。以下、あまりに微に入り細に入るので詳述は避けるが、要するに、勘十郎にも芸者に産ませた隠し子がおり、その子は藤間紫が引き取って、自分の実家の籍に入れて育ててきたのだという。そのほか、稽古場の名義の件だとか、勘十郎側についた長女は不倫の子を産んでいたとか……まさに藤間家は建物から人間まで、すべてがスキャンダルまみれだったのだ。

「結局、紫さんは、この泥沼から抜け出すには藤間家と絶縁するしかないと決意します。そこで藤間家を出て、“紫派藤間流”という新しい流派を興したのです」(同)

 東京家裁への申し立ては、紫と長男の猛烈な抗議や逆訴訟に見舞われ、4か月後に取り下げられる。そして勘十郎は1990年、長女・藤間高子に名跡を譲り、自らは二世藤間勘祖を名乗ったとたん、90歳で逝去する。

 実父が辰巳柳太郎だとのトンデモ情報を流された、長男・藤間文彦さんは、かつて週刊新潮の取材に、こう語っている。

《「よく母は父の勘十郎と離婚し、猿之助さんと結婚したと言われますが、それは間違いで、死別でした。未亡人になってから結婚したのが真実です。父と死別する前から母と猿之助さんの関係はありました。私はそういう生活は普通のことだと思っていたし、また父も猿之助さんを息子のようにかわいがってくれたのです」》(週刊新潮2011年2月24日号~「市川猿之助」「香川照之」の父子断絶を修復した「藤間紫」)

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