猿翁逝く 48年の思いを貫き「藤間紫」と60歳で結婚 香川照之と復縁し歌舞伎役者にするまでの全舞台裏
日本一の“お妾さん女優”
藤間紫(当初の本名・河野綾子)は、1923(大正12)年5月、東京に生まれた。父親は医師で、のちに日本医科大学の学長・理事長となる河野勝齋。六代目尾上菊五郎の主治医でもあり、たいへんな芸事好きだった。ちなみに、いちばん下の弟が、歌舞伎役者で人間国宝の六代目中村東蔵(1938~)。いとこに漫才コンビ〈あした順子・ひろし〉のあした順子(1932~)がいる。
幼少期から、六世藤間勘十郎が率いる宗家藤間流に入門。すぐに日本舞踊の天才少女として頭角をあらわす。藤間流は、舞台映えのするスケールの大きな振付けが特徴である。そのため、歌舞伎舞踊の振付けを多く手がけており、役者たちと縁が深かった。特に戦前、勘十郎が六代目尾上菊五郎に振り付けた「藤娘」は、名舞踊として現代まで伝わっている。少女だった河野綾子は、そんな流派に入門したわけで、これがすべての始まりであった。
21歳で「藤間紫」名をもらい、名取に。さらに太平洋戦争真っ盛りの1944年、24歳の時に、23歳年上の勘十郎に求婚され、結婚。宗家夫人となる。終戦後の苦しい時期、紫は献身的に勘十郎を支えた。空襲で焼失した稽古場も再建させ、藤間流を一大流派に育て上げた。後年、市川猿翁を支え、澤瀉屋を盛り立てて“陰の主役”となるのだが、その片鱗は、すでにこのころから芽生えていたのである。
「藤間紫は、日本一の“お妾さん女優”です」
と語るのは、ベテランの映画ジャーナリストである。
「彼女は生涯に100本以上の映画に脇役で出演していますが、そのほとんどの役は、お妾さんか芸者です。しかも、気が強くてしっかり者の設定が多い」
まさに私生活同様、女優としても“陰の主役”をやらせたらピカイチなのを製作側は見抜いていたのである。
「その印象が決定的になったのは、1952年の東宝映画『三等重役』(春原政久監督)でした。進藤英太郎扮する好色社長が、芸者の藤間紫を旅行に同伴し、女房にばれそうになる。機転をきかせて乗り切ろうとする藤間紫。のちにこのパターンを発展させて大ヒットするのが、東宝の社長シリーズです。森繁久彌演じる社長が、芸者やバーのマダムにちょっかいを出すが、いつもぎりぎりで女房にばれる。その原型は、藤間紫がつくったのです」
日本舞踊の宗家夫人でありながら、映画に(のちにテレビにも)出演するようになったのは、少しでも宗家への金銭的援助になればとの思いだった。
あるとき、その藤間流に、歌舞伎役者の少年が入門してくる。三代目市川團子。先日亡くなった、のちの市川猿翁である。まだ12歳だった。稽古場には、美しい宗家夫人がいた。藤間紫、28歳。
のちに猿翁はこう綴っている――《子供心にも美しい人だと思った》(日本経済新聞「私の履歴書」2014年2月)。にわかには信じがたいが、12歳の團子少年は、本気で28歳の女性に恋心を抱き、60歳で入籍するまで、その思いを貫くのである。
ただし、それまでには、想像を絶する波乱が待ち構えていた。
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