持続的なコーヒー生産と喫茶店文化隆盛を目指して――柴田 裕(キーコーヒー代表取締役社長)【佐藤優の頂上対決】

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民主主義と喫茶店

佐藤 喫茶店が大切なのは、それが民主主義と密接な関係があるからです。

柴田 原点は17世紀に誕生したロンドンのコーヒーハウスですね。

佐藤 コーヒーハウスに人が集まり、会話が交わされ、情報交換が行われた。そしてそこで世論が形成されるようになっていきました。さらにはコーヒーハウスがジャーナリズムの母体となり、郵便や保険、株の取引を行う場所にもなりました。

柴田 たいへん重要な役割を担ってきました。

佐藤 私が1987年にモスクワの日本大使館に赴任した時には、純然たる喫茶店はほとんどなかったんです。カフェのような場所はありましたが、立ち飲みか、事前予約が必要でした。

柴田 予約制だったのですか。

佐藤 そうすれば、そこに誰が来るのかわかります。そしてだいたいどこかに盗聴器が仕掛けられている。

柴田 ソ連末期の話ですね。

佐藤 はい。レーニンやスターリンが革命運動をした時代には喫茶店がたくさんあったんです。彼らは喫茶店に入り浸って、革命や陰謀の話を繰り広げていた。だから自分たちが革命を成し遂げると、革命が起きるのは喫茶店からだと、1930年代の都市計画で町からなくしてしまった。

柴田 ロシアには紅茶のイメージもあります。

佐藤 ソ連末期の頃、だいたい保守派は紅茶を好み、改革派や民主派がコーヒーを飲むという傾向がありましたね。だからどちらを頼むかは大きな問題で、共産党の保守派の人と会う時には「紅茶をお願いします」、そしてエリツィン大統領周辺では「もちろんコーヒーです」と言っていました。

柴田 飲みもの一つで政治的立場がわかったのですね。

佐藤 いま日本では、喫茶店は減っているのですか。

柴田 下げ止まったと思っていたら、コロナ禍でまた減りました。ただ、喫茶店の数え方というのは、難しいんですね。何かの施設に付属しているところもあれば、チェーン店もありますし、自家製ケーキとともにコーヒーを出すという個人経営の店もありますから。どこまで含めるか難しい。

佐藤 確かに数えにくいですね。

柴田 概数ですが、1960年代は3万軒ありませんでした。それが1975年くらいに9万軒くらいになります。当時、脱サラして喫茶店を開くブームがあったんですね。

佐藤 みんなが憧れるライフスタイルでした。

柴田 そこから1980年代前半には15万軒くらいになり、そこがピークです。バブルの弾けた1990年代には12万軒くらいに減り、2016年にはピーク時の半分以下の7万軒ほどになります。

佐藤 喫茶店の増加にキーコーヒーが果たした役割は大きいのではないですか。

柴田 私どもは1955年からコーヒー教室を開催してきました。喫茶店の開き方ということではなく、コーヒーに関する専門知識とおいしいコーヒーの入れ方などをお教えする教室でしたが、そこから開業された方は数多くいます。

佐藤 これまでどのくらいの方が受講されたのですか。

柴田 約37万人です。

佐藤 まさにコーヒー文化を作ってこられたわけですね。

柴田 教室は、コロナ禍でもホテルで開くなど、いまも続けています。

佐藤 コロナ禍はどのくらい影響がありましたか。

柴田 私どもは、売り上げの4割がホテル、レストラン、喫茶店、カフェといった業務用、3割がスーパーやコンビニ、百貨店で販売される家庭用、残り3割は缶コーヒーなどの原料用といった構成です。それがコロナ禍では業務用と家庭用の割合が逆転しました。ただ、いまは業務用が盛り返しています。

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