ラグビー・日本代表でイングランドを追いつめた男、プロレスラー「阿修羅原」の豪快伝説 天龍との出会いから“理想的な引退試合”まで

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「ありがとう」

 天龍が1992年に自団体WARを旗揚げすると原も参加。その頃は酒席をともにすることもあった。大袈裟でなく、原は、手すりがなければ飲食店への階段を1段も上れなかった。なのに、リング上では大奮闘していた。それは、宿舎では足腰が立たぬのにグラウンドに立てば激闘を見せたラガーマン時代と同じではなかったか。

 1994年10月29日、引退。最後はバトルロイヤルで天龍と原が残り、原が本当はやりたかった天龍との一騎打ちが実現。天龍が原を3カウントで介錯する形で、幕を閉じた。試合後、知己の大ベテラン記者が、こう口にした。「名タッグチームとして、理想的な終わり方だったね」。

 その夜、都内の高級ホテルの地下1階で、ささやかな引退記念パーティーがおこなわれた。後に円楽を襲名する三遊亭楽太郎さん(当時)も来ていた。楽太郎さんは天龍とは両国中学での同輩。万感の表情を見せるスナップが筆者の手元に残っているが(写真参照)、このパーティーに入る直前には、「阿修羅が源ちゃんを男にしてくれた」と泣いていた。

 パーティーも終わり、お呼ばれしていた筆者は、その体調面から観ても、原とはもう会うこともないだろうという予感があった。その場で、最初で最後のお願いをした。「サインを頂けませんか?」そして、こんな言葉を付け足した。

「あの……出来れば、一言、何か、書いて頂ければ……」

「うん?」

「今までを振り返ってというか……」

「うん」

 原は思案すると、サインの横に、こう書いた。

『ありがとう』

 原は今度こそ帰郷。プロレスで燃え尽きたことが、その事実からも感じ取れた。それから親の介護をしつつ余生を過ごしていたが、2015年4月28日逝去(享年68)。そして、天龍はその7ヵ月後に引退(11月15日)。翌日発行の東京スポーツに天龍の独占手記が載り、こう綴られていた。

〈阿修羅原が亡くなった。その後、ラグビー日本代表がW杯で南アフリカに勝つ大殊勲を挙げた(※同年9月19日)。ニュースで五郎丸選手たちの活躍を聞くたび、ラグビー世界選抜だった原を思い出した。生きていたらあちこちからコメントを求められただろうなあと。大喜びで話す原の笑顔が目に浮かんだ〉

 原の葬儀には、『龍原砲』『天龍同盟』と大書された天龍からの2つの花輪が、大きく掲げられていた。

 現役最後の原の「ありがとう」の言葉、それは、ラグビー同様、プロレスにも向けられた以上に天龍に宛てられ、そして、天龍自身も、原に言いたかった言葉ではなかったか。

瑞 佐富郎
プロレス&格闘技ライター。愛知県名古屋市生まれ。フジテレビ「カルトQ~プロレス大会」の優勝を遠因に執筆活動へ。主著に『アントニオ猪木』(新潮新書)、『永遠の闘魂』(スタンダーズ)、『アントニオ猪木全試合パーフェクトデータブック』(宝島社)など。

デイリー新潮編集部

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