ラグビー・日本代表でイングランドを追いつめた男、プロレスラー「阿修羅原」の豪快伝説 天龍との出会いから“理想的な引退試合”まで
「龍原砲」誕生
1987年6月、天龍源一郎と「龍原砲」を結成し、“天龍革命”をぶち上げると、まさに阿修羅のごとき大暴れ。椅子攻撃で頭を割られ、その夜、浴場で頭を洗おうとすると、指が頭の中に入った。骨まで見えるほどの裂傷を負っていたのだ。なのに翌日、天龍にこう言った。
「さあ、源ちゃん、今日も俺たちは全力で行くかね」
背後から攻撃され、顔からコーナーポストに突っ込み、大流血したことあるも。見ると、コーナーの金具に引っかかり、眉の上から目の下まで顔の皮膚がめくれあがっていた。駆け付けた救急隊員が「鏡を見ないで下さい」と言う、20針以上を縫う大怪我。だがその日は結局病院に留まらず焼肉店へ行き、しかも朝鮮人参酒を一気飲み。翌日、顔がドッヂボールのように腫れあがった。後年、酒席をともにした邪道がよく言っていた。
「原さんは、激しい受けを繰り返したせいで、歯が2本しかなかった。なのに焼肉に連れていってくれて、本人も沢山食べていた。外道とよく話しましたよ。『どうやって食べてるんだろう?』って」
やや遡るが、スタン・ハンセンとは彼が全日本に移籍した1982年、その第1戦の相手を務め、ラリアットをくらって豪快に沈没している。以降も受けっぷりの良さからか、頻繁にカードが組まれた。そもそもラリアット自体がハンセンがアメフト選手時代、突撃して来た相手に腕を伸ばしたらKOしてしまった過去から思いついたものだが、その受けが良かったのがラグビーの猛者である阿修羅だったというのがおもしろい……というのは外野の勝手な感想で、原本人が言うには、「初対決から2年後かな? 身長をはかったら、3センチ縮んでたんだよ」とのことである。
攻めも受けも、本気も本気。そして、天龍と原は、若手だった川田利明や冬木弘道を巻き込んだ「天龍同盟」として、一躍マット界の台風の目に。これに、当時、新日本プロレスでUWF軍団を率いていた前田日明が危機感を抱いたのは余りにも有名だ。
〈ナマでボッコンボコン やり合ってる。それは、プロとしての俺たちから見れば、とんでもないことだったんだよ。(中略)あれこそ本当の“過激なプロレス”だったよ〉(前田日明『真格闘技伝説 RINGS』飛鳥新社)
原のこんな言葉がある。「痛くもないのに、痛い顔は、俺には出来ないから」。
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