ラグビー・日本代表でイングランドを追いつめた男、プロレスラー「阿修羅原」の豪快伝説 天龍との出会いから“理想的な引退試合”まで

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後戻りを嫌う性格

 ラグビー入りのきっかけからしてふるっていた。地元・長崎県立諫早農業高校時代は、相撲部で県内王者となり、主将として全国大会に出場という実績がありながら、助っ人として出場したラグビー部の試合でコロッと負けてしまうと、逆にラグビーに夢中に。実際、進学したのは唯一、ラグビーでの誘いがあった東洋大学だった。一度決めればブレず、一途に突進。そして何より、後戻りを嫌う人間だったのだ。

 そんな原の性向が見抜かれたのが件のイングランド戦だった。時の日本代表を率いる大西鉄之祐監督は原を最前線の左プロップに配置。182cm、87kgの体格ながら100メートルを11秒7で走れる原はそれまで、社会人チームの近鉄で、オールラウンド・プレーヤーが担いがちな花形のナンバー8を務めていた。ひたすらスクラムを組むプロップは畑違いもいいところである。だが、屈強なイングランド勢に押し負けぬ人材も、やはり原しかいなかった。

 やると決まればひたすら前進。合宿で一心にスクラムを組み、全身は疲弊し、首は傷つき、化膿した。「そこにハエがたかる。そのハエを払う腕が上がらない」(原のコメント「週刊現代」2014年8月16日号)。腰も痛め、宿舎では四つん這いで生活していたという。しかし、グラウンドにひとたび立てば雄々しく驀進。イングランド戦を、「真っ白になれた試合」と振り返り、世界も注目する戦力となったのは前述の通りだ。

 その推進力は凄まじく、敵選手を何人もひきずりながら進んだこともあれば、スクラムを力任せに組んで、肋骨が3本折れたこともあったという。

 少し話は逸れるが、結婚相手との出会いは大学4年の秋。東武東上線の池袋駅で酔漢に絡まれていた彼女を救ったのがきっかけだったが、翌々年の1970年春に結婚するまで、原が送ったラブレターが、「3000通以上(笑)」だったと、後年、夫人本人から聞いた。少し多めに交際2年と考えても、1日4通以上。ひょっとしたらギネスものである(ポストを開けると、毎日、ドッと落ちて来たとか)。

 原の全力ファイトは、プロレスでも変わらなかった。

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