【大原麗子の生き方】「私は女優ではなく俳優なんです」と言った真意 親友・浅丘ルリ子が「お別れの会」で“二人の元夫”について語ったいい話

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存在感で勝負する女優

 周囲には「もう一度きっちり病気を治して仕事に復帰します」と話していたという。悲報を知った映画監督の山田洋次(91)は、当時こんなコメントを出した。

《寅さんシリーズで2回登場してもらいましたが、本当に魅力的なマドンナでした。キラキラ光るまなざしや、独特の甘い声にはスタッフまでがうっとりしたものです。暫くスクリーンやテレビから遠ざかっていたので、どうしたのか、お元気なのだろうか、と心配していた矢先なので、ただただ驚いています。とても悲しいです》

 山田監督は芝居に向き合う大原の真摯な姿勢を高く評価していた。大原はスケジュール過密な売れっ子だったが、九州ロケ(第34作「寅次郎真実一路」)の時などは1週間じっくり撮影に参加。スタッフには終始、協力的な態度で臨んだという。映画を見る人を大切にしたい。多くの人から支持されたい。そんな気持ちが強かったのだろう。

 ファンの声を常に大切にし、ファンレターには自ら返事を書いたそうだ。「ファンとの手紙のやりとりが、演技のためになる」とまで話していたという。

 没後、こんなコメントが寄せられた。

「狂っているように見せずに狂っていく、狂っているゆえに美しく見える。これは大原さんしか出来なかったでしょうね。ある意味、彼女の人生そのものだったようにも思えてきます。(中略)。どんな役でもこなせる器用さはなかったけれど、自分に合う役を演じた時は本当にすごかった。存在感で勝負する女優だったんですね。緊張感のある美しさというか、さわるとすぐに壊れちゃいそうな美しさを感じました」(映画監督・降旗康男[1934~2019]、朝日新聞8月10日夕刊be)

 まさに大原にふさわしい「送る言葉」である

 8月23日には青山葬儀所で「お別れの会」が営まれ、森光子(1920~2012)、浅丘ルリ子(83)、渡辺プロダクションの名誉会長・渡辺美佐氏(94)、テレビプロデューサー・石井ふく子氏(97)、故・美空ひばりの長男・加藤和也氏(52)ら関係者約400人が別れを偲んだ。じーんと胸に迫ってきたのは親友・浅丘の言葉である。

「あまり遺影は見られません。まだ自分の心の中で整理ができていませんし、私は麗子に怒っています。でも、一番嬉しかったのは、渡瀬(恒彦)さんと森(進一)君が来てくれたこと。本当にみなさん優しくて、こういう形でお別れ会ができて良かったと思っています。あちらに行っても、みんなに可愛がられて、憎まれ口をきかないで、ちゃんとみんなと一緒に仲良くしていただきたいです」

「お別れの会」には元夫の渡瀬と森の2人も参列した。「孤独死」だったが、最期は多くの人に見送られた。決して孤独ではなかった。その麗しい姿は、永遠に語り継がれるだろう。

 次回は俳優の沖雅也(1952~1983)。「涅槃(ねはん)で待つ」と遺書を残し、東京・西新宿の高層ホテルから飛び降りたのは40年前の83年6月28日だった。享年31という短すぎる人生に何があったのか。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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