【袴田事件再審】同級生が証言する巖さんの少年時代 「逮捕されたのを知って仰天した。あんな温厚な男が…」
5点の衣類はおかしい
中学卒業から15年の歳月が流れた1966年6月30日、清水市(現・静岡市清水区)で大事件が起き、8月に巖さんが逮捕される。
市川さんは「新聞やテレビを見て仰天した。予想もしなかった。彼が卒業後、清水に行ったことも知らなかった。あんな温厚な男が殺人などするはずないと思ったけど、何があったのかわからない。うっかりしたことは言えないと思った。だけど、そもそも袴田君は家族同然で住み込ませてもらっているのに、一番お世話になっていたご主人や家族を殺してしまったら、そのあと自分の生活はどうなるの。食っていけない。常識的に考えたってありえないとは思っていたよ」と振り返る。
花島さんは「もうびっくりしたよ。あんな大人しくて真面目で優しい男がそんなことするはずがないと思ったね」と話した。
ただ、藤森さんは「ちょうど30歳だったけど、あの頃、僕は腎臓を患って入院していて、生きるか死ぬかの瀬戸際で、それどころじゃなかったんですよ。だから事件のことは覚えていないんです」と言う。
1980年11月、巖さんの死刑判決が確定する。
渥美さんは「巖君の長兄の茂治さんが、地域の公民館などで『袴田事件を知る会』みたいな集会を催していました。私もその手伝いや署名活動をしていました。米穀店に勤めていた茂治さんは、非常にしっかりしたいい人でした。清水のほうの空気はわかりませんが、こちらのほうでは『巖君がそんなことするはずない』という雰囲気でしたよ」と振り返る。
渥美さんは静岡大学工学部を卒業後、化学工学を専門とし、母校で工学部の教授まで務めた。その傍ら、浜松で巖さんの支援活動にも関わった。
「卒業して会社勤めをしていたけど、大学から声がかかった。当時は高度経済成長期で、全国各地の大学で工学部の学科が新設されていったので、大学教員が足りなくなり、僕のような無能者でも大学の助手になれたんですよ」と渥美さんは謙遜する。
「事件の翌年(1967年)の夏に5点の衣類が味噌タンクから見つかったという報道があった時、それはおかしいとすぐわかりました。味噌工場では、樽を洗わないで新たに次の味噌を仕込むなんていうことはあり得ません。そんなことしたら味噌は雑菌だらけになってしまいます。あの当時は、我が家でも母が味噌を作っていたのでよくわかります。浜松市内にも醤油工場があり、知り合いがいましたが、洗わずに入れ替えるなんてありえないと言っていました」(渥美さん)
5点の衣類が当初からおかしいという声は上がっていたが、それが裁判に生かされることはなかった。
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