【袴田事件再審】同級生が証言する巖さんの少年時代 「逮捕されたのを知って仰天した。あんな温厚な男が…」

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快活だった巖さんの母

 巖さんは無口な少年で、彼らとて強く印象に残っている会話はないようだが、久しぶりに一堂に会して懐かしそうに話してくれた。

 浜名湖のほとりにある雄踏という町で6人きょうだいの末っ子として誕生した巖さんは、すぐ上の姉で勉強も教えてくれるひで子さんにくっついて遊び、すくすく育った。

 戦時色が強まった頃には、浜北の中瀬の親戚宅に疎開した。中瀬国民学校(小学校)に通ったが、その後、赤佐村の岩水寺駅の近くに転居し、赤佐国民学校に通い、卒業して新制の赤佐中学に通った。

「ともちゃんは本当に達者な人だったよなあ」

 藤森さんが突然、切り出した。巖さんの母親・ともさんは若い頃、非常に明るく快活で頭の良い女性だったという。

「彼女が40歳くらいの頃だったかな。よくうちにも遊びに来ていたよ。ひで子ちゃんとおんなじで元気者だった。でも、(父親の)庄一さんは無口で静かだったな」(藤森さん)

 快活なひで子さんは母親似で、物静かな巖さんは父親似だったようだ。

 ともさんは静岡地裁での一審判決(1968年)で、巖さんが有罪、それも死刑判決になったのを知って「巖はもうダメかい」と嘆き悲しみ寝込むようになり、まもなく60代で亡くなった。病弱だった庄一さんも前後して亡くなった。彼らは巌さんの父母やひで子さんのことまで「ちゃん」付けで呼んでいた。親近感が強かったようだ。

袴田家が火事になったことも

 渥美さんは「疎開で中瀬国民学校に来ていた頃、組も一緒だったと思う。彼が住んでいたのは、私が母の実家に行く道の途中だった」と振り返る。

 戦後まもなく、袴田家は近所の家の火事が延焼して燃えてしまった。

「火事があったんだよ。袴田君の家が焼けたんだ。あの頃はよく、校庭で映画の上映会があった。その時、木に登ってたやつが『火事だ!』って叫んだ。袴田君の家のほうから煙が上がっていたんだ」(藤森さん)

 ひで子さんがよく「巖は可愛がっていたメジロの籠と、餌にする芋をふかしていた鍋を持ち出して、外に逃げて震えていたんです」と振り返る火事のことだ。

 巖さんと市川さん、花島さん、藤森さんは、戦後まもなく赤佐小学校から赤佐中学に進学し、渥美さんだけは中瀬小学校から中瀬中学に通った(両校は後に、現在の浜北北部中学に統合される)。

「袴田君と同級だったのは、僕だけが数カ月と短かったけど、藤森さんたちは5年くらいは一緒だったんですよ」と渥美さんは話す。

 彼らが中学を卒業したのは、敗戦から6年が経ち、朝鮮戦争が勃発した翌年の1951年だった。

 中学を卒業後、彼らは巖さんと疎遠になってゆくが、花島さんは「通勤で芝本駅(遠州鉄道)から乗っていた頃、よく袴田君と一緒になった。話の中身は忘れたけど、世間話をしていました。まだ袴田君がボクシング修行をしていた頃だったと思うけど、そのせいか誰かの用心棒をしているなんて噂も聞いたことがあった」などと話した。

 4人はそのうち、巖さんがどこにいるのかもわからなくなった。

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