【袴田事件再審】同級生が証言する巖さんの少年時代 「逮捕されたのを知って仰天した。あんな温厚な男が…」
巖さんの同級生たち
ゴトンゴトンと2両編成の可愛らしい電車が走る。JR浜松駅近くの新浜松駅から終点の西鹿島駅までの短い距離を往復する私鉄の遠州鉄道・鉄道線は、1943(昭和18)年、つまり敗戦の2年前に開業した。巖さんが7歳、姉のひで子さんが10歳の頃だ。ちょうど今年が開業80周年になる。最長距離を走っていた奥山線など3線が赤字で廃線となり、現在は17・8キロを走るこの鉄道線だけが残る。
「俺は子供の頃から遠鉄の運転手になりたくてしかたなかったんだよ」と話すのは藤森勗(つとむ)さんだ。
7月11日、筆者は鉄道線・遠州岩水寺駅のすぐ近くにある藤森さんの家を訪ねた。前日の10日には、3月の東京高裁の再審開始決定で最高裁への特別抗告を断念していた静岡地検が「再審の場で有罪立証をする」と発表し、衝撃が走っていた。
筆者のために「袴田巖さん支援クラブ」の清水一人さんが巖さんの小中学校時代の級友たちに声をかけてくださり、市川定男さんさん、花島忠行さん、渥美邦夫さん、藤森さんの4人が集まってくれた。
巖さんの小中学校の同級生である藤森さんは、製麺業から青果店に転じ、今は商売を畳んでいる。「僕らの同級生はほとんど死んでしまった。生きていても介護施設に入っていたりして、元気なやつはほとんどいないよ」と吐露した。
藤森さんは「袴田君はおとなしい男だったな。ちょっと色が黒くて体は小さかった。勉強のことは覚えちゃいないけど、とにかくものすごい運動神経で、運動は何でもできたよ。小さいのに跳び箱なんかも何段も飛んでいた。凄かったな」と話した。
さらに「中学1年の時だっけ、僕と袴田君ともう1人のやつで、数学の授業をサボって遊びに行ったんだ。戻ったら先生が教室の前に仁王立ちで立っていて、頭を叩かれてこっぴどく怒られたよ。袴田君との一番の思い出だな」と懐かしむ。戦後すぐのことだった。
でも、「卒業してから彼はどこへ行ったのか、連絡も取っていなかった」と言う。
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