猿翁逝く 歌舞伎界初の大卒役者・三代目猿之助の反逆人生 最後は実子・香川照之が鎮圧に加担

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「同じことをやってもお客様は喜ばない」

「三代目の舞台で驚かされたことは何度もありますが、やはり『義経千本桜』の宙乗りでしょう。ただし、私が感動したのは宙乗りそのものではありません。初めての宙乗りを、歌舞伎座ではなく、国立劇場でやったことです」

 と、先の記者が回想する。

「国立劇場は、1966年に開場しましたが、このときの目標のひとつが“通し上演の復活”でした。歌舞伎は、本来、一編がたいへん長いものです。しかし松竹は観客動員を増やすためにも、長い通し上演をやめ、人気のある幕だけを抜粋上演する“見取り興行”中心にした。そのため、むかしながらの通し上演の面白さが忘れられてしまった。国立劇場は、そんな松竹の興行方式と反対の方針で始まったのです」

 猿翁はその新方針に賛同し、開場2年目の1968年、国立劇場の2か月公演で「義経千本桜」全段を通し上演で復活させた。

「これは、いってみれば松竹に対する反逆でした」

 ところが猿翁は、ただの復活上演では終わらせなかった。この記者氏は、元気だったころの猿翁本人から、当時の思い出話を聞いていた。

「彼は江戸時代の史料で、幕末に四代目市川小團次が狐忠信の引っ込みを宙乗りで演じたとの記録を読んでおり、いつか復活させたいと思っていたそうです。しかし史料には、最後に見物席の中へ入って消えたようなことが書かれていた。この意味が、どうしてもわからなかったというんです」

 宙乗りそのものは、ほかの役者もやっていた。

「それまでの宙乗りは、花道の上で浮かび、揚幕の前で着地して引っ込む程度でした。三代目は『同じことをやっても、お客様は喜んでくれません。せっかく国立劇場が通しで復活させてくれるのですから、むかしどおりの小團次でいきたかったんです。当初は客席上を、斜めに空中横断する宙乗りを考えていました。しかし、消防法の関係でネットなしで客席の上は飛べないんです』と言ってました」

 結局、花道上にワイヤを3階席の最後方まで通し、突き当たりに仮鳥屋(揚幕の仮部屋)をつくることになった。これなら、確かに見物席の中へ消えていくように見える。

「自衛隊からパラシュート部隊の装備を借りてきたようなことを言ってましたよ」

 客席は異常な興奮につつまれた。こんな歌舞伎は、いままで誰も見たこと がなかった。

「松竹幹部は、連日満席の国立劇場にホゾを噛んだと伝わっています。二代目尾上松緑は、〈木下大サーカス〉と三代目の本名の〈喜熨斗〉(きのし)をかけて“キノシ・サーカス”と呼んで嫌がっていたそうですが……」

 だが、いまやこの宙乗り設備が、歌舞伎座にも新橋演舞場にもあることは、いうまでもない。

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