猿翁逝く 歌舞伎界初の大卒役者・三代目猿之助の反逆人生 最後は実子・香川照之が鎮圧に加担

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歌舞伎界の革命児

 市川猿翁(三代目市川猿之助)が亡くなった。享年83。

 2003年に脳梗塞を発症、その後はパーキンソン病も患い、本格的な舞台出演はこの20年、なかった。それだけに、最近の若い歌舞伎ファンには、名声を知るだけのひとも多いのではないだろうか。

 猿翁の功績について、マスコミ報道では、スーパー歌舞伎を生み出したことや、3S歌舞伎(スピード、スペクタクル、ストーリー)を定着させたことが、さかんに報じられている。

「たしかにそのとおりで、三代目のやってきたことは、日本演劇史に残る革命でした。そのため、“歌舞伎界の革命児”などと呼ばれました。しかし、長年、澤瀉屋を観てきた立場からすると、“革命”よりは“反逆”というキーワードのほうが、ピッタリくるような気がするんです」

 と語るのは、ベテランの元演劇記者である。

「たとえば、実子・香川照之(市川中車)との長年の絶縁も、三代目なりの“反逆”精神のあらわれでした。ところが最終的に、その“反逆”が、当の香川照之によって“鎮圧”されてしまう。結局、三代目市川猿之助の目指した“革命”は、最終的に成就しなかったのです」

 実子が、親の目指した“革命”を“鎮圧”するとは……市川猿翁の反逆人生とは、どういうものだったのだろうか。前後編に分けて紹介したい。

周囲に頼らない反逆児的精神

「三代目猿之助の“反逆”の原点の一つは、高校時代のミュージカルだったかもしれません」

 と記者は意外な指摘をする。

「彼は7歳の時から三代目市川團子の芸名で舞台に出ていますが、中学・高校・大学と慶應ボーイで、歌舞伎界初の大卒役者でした。その慶應高校時代、すでに舞台で忙しかったはずなのに、なんと演劇部に所属していたのです」

 その演劇部で意気投合したのが、のちに昭和音楽大学教授・オペラ研究家となる永竹由幸氏(1938~2012)だった。

「私は永竹さんの担当だったので、当時の話を聞いたことがあります。あるとき、三代目が台本・演出を、永竹さんが音楽を担当して、ミュージカル『宝島』をやったんだそうです。しかもこれが、白木屋(のちの東急百貨店)の劇場を借りての“興行”だったという。高校生がですよ」

 このころのことを、永竹さんはこう言っていたそうだ――「とにかく盛りだくさんの舞台だった。彼はあのころから、のちのスーパー歌舞伎のようなことを考えていたのではないか。なんとなく歌舞伎界の古い体質を敬遠しているような雰囲気もあった」

 実は猿翁は、すでに小学生時代から、学芸会などでミュージカル的な芝居の台本・演出をこなしていた。さらに大学時代には仲間と劇団を結成し、SF劇を上演している。このころから、周囲に頼らない反逆児的な精神が芽生えていたのかもしれない。

 余談だが、猿翁はその劇団で、ある美少女と共演している。江頭優美子さん、のちの姓は小和田。雅子皇后の母である。

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