巨人・秋広優人は二松学舎大附高時代、成長痛で苦しむ一方、体重はなかなか増えず…3年時に遂に覚醒した“幸運とも言うべき理由”

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秋広のツキ

 二松学舎大附高の野球部には「野球は高校で終わりです。そのためにも甲子園を目指します」という部員が少なくないという。

「例年なら、甲子園を目指すことが第一目標で、それに付随して『プロや大学で野球を続けたい』という部員の進路が決まっていきます。ところが、秋広が3年生の時は、チームの比重が甲子園から進路指導に変わった。そのため秋広をピッチャーとして多くの試合に出場させることができました。これで秋広を見てくれる関係者が増えたはずですから、彼にはツキがあったと思いますね」

 そして遂に、秋広は覚醒した。春先からの2カ月で、球速はあっという間に140キロを超えた。バッティングも飛距離が伸び、ピッチャーでありながら長打力も兼ね備えた“二刀流”として注目を集めた。話は前後するが、市原監督がサードの守備も体験させていたため、巨人は入団当初、秋広をサードとして育成する方針を示していた。

「『充分な体力がつきさえすれば必ず覚醒する』と予想していましたが、その通りになりました。僕が我慢できた理由は、まず1つ目として、当初から潜在能力の高さを感じていたことが挙げられます。鈴木誠也は毎年、オフになると遊びに来てくれるんですが、その時に、『秋広もプロに行くからな』と紹介したことがあります」

我慢できた理由

 2つ目は、市原監督が指導者としての経験を積み重ねてきたことだ。市原氏は1965年3月生まれの東京都出身。二松学舎大附高の野球部に入部し、3年生の春、ピッチャーとしてセンバツに出場、準優勝に輝いた。

 ちなみに、当時のライバルは早稲田実業。早実のエースとして活躍した荒木大輔氏は同学年で、「打倒早実、打倒荒木」に燃えていたという。

 高校卒業後は日本大学に進み、その後は社会人野球のNTT信越でプレー。3年連続で都市対抗野球に出場した。選手を引退すると母校の二松学舎大附高にコーチとして戻り、31歳で監督に就任した。

「あれから27年間、ずっと監督をやってきましたが、指導者として経験を重ねたことが大きかったでしょうね。若い頃だったら秋広の成長を待てなかったかもしれません。そして3つ目の理由は、時代の変化ですね。僕が新人監督の時は『選手のケガは自己責任』が常識でしたが、今は『監督の責任』です。とにかく秋広にはケガをしてほしくなかったので、我慢できたのではないでしょうか。そして何より、無知だった新人監督の頃から様々な助言をしてくれた他校の先輩監督など、周囲の方々に恵まれた結果だと思っています」

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