【福富太郎さんの生き方】面接したホステス3万人、首相もお忍びで、最盛期には44店舗…銀座「ハリウッド」の経営者が語った“昭和のキャバレー文化”

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19歳でマネジャーに抜擢

 外国人観光客をにらみ、フロントに3人、各フロアに2、3人ずつ通訳を配置した。土産は浮世絵を染め込んだ風呂敷。世界に「銀座ハリウッド」の名を売り込んだ。子育て中のホステスのために託児所を設けるなど様々なアイデアも話題を呼び、水商売の世界では納税額全国一になった。猪突猛進。「もう、どうにも止まらない」である。

 政財界の大物や有名人もひいきにした。福田赳夫元首相(1905~1995)もお忍びで訪れた。

「(福田元首相の)ふるさと群馬出身の女の子を全員つけたら40人以上になったこともあったな」

 と福富はうれしそうに教えてくれたことがある。作家の遠藤周作(1923~1996)もなじみ客。福富は遠藤の小説「快男児・怪男児」のモデルにもなった。秀でた額に涼やかな眉と張りのある大きな目は、大物の風格を兼ね備えていた。

「美女3000人をそろえている。松井須磨子型から加賀まりこ型まで」

 とキャッチフレーズ。もちろん現実にはそんなことはありえないが、大法螺(おおぼら)を吹いても許されるような雰囲気が昔はあった。高度経済成長の時代だっただけに、夜の世界もおおらかだったのだろう。

 福富は1931(昭和6)年、東京府・大井町(現在の品川区)生まれ。府立園芸学校(現在の都立園芸高校)の2年のとき敗戦を迎えた。学校の農園のイモを掘り出し、焼け跡で見つけた鍋で茹でて闇市で売ったというから、若いころから「商才」があったらしい。

 毎日腹ぺこの生活に愛想をつかし、学校を中退。年齢をごまかし、植木職人の手伝い、喫茶店勤め、古本屋の小僧、中華料理店のコック見習いなどさまざまな一期一会を繰り返し、最後は新宿のキャバレーにボーイとして住み込む。

 3年間無欠勤。掃除や皿洗いなど必死に働いた。「彼は真面目に働く」とホステスや客からの評判も良かった。織田信長に仕える日吉丸(のちの豊臣秀吉)のように、夜の世界で次第に頭角を現していく。

 3年半でマネジャーに抜擢。19歳だった。初めて背広を新調した。その後、誘われるままに、五反田、渋谷、新宿のキャバレーを転々としてマネジャー稼業に励む。機知を効かせ、いつも笑顔。ときには大風呂敷を敷くこともあったが、自分を頼ってくれる人には絶対にそむかなかった。各店で業績をあげ、27歳で独立した。

 新しい店の屋号は「21人の大部屋女優の店」。もちろん、女優などひとりもいるはずはない。だが、大当たり。

「“果報は寝て待て”と商運が回ってくるのを待っているようでは駄目だ。自らつかみにいかないといけない」

 と商売のコツを説いた。福富によると、昭和の時代はなじみのホステスを口説くため何度も通った客が多かったという。でも、純情だった。

「酒でも飲まないと女性と話をすることもできないような昭和世代の客が、キャバレー文化を支えた」

 と話す。一方で、ストレートなサービスを売り物にしたサロンや、飲食店が席巻。キャバレー文化も衰退していく。

 さて、福富は浮世絵の世界的なコレクターでもあり、美術評論家としても名高かった。仕事場には、勝海舟(1823~1899)の写真が机に置かれていた。江戸城の無血開城を果たし、戊辰戦争では官軍と旧幕府軍の双方から厚い信頼を集めた英傑。明治新政府にも大きな影響を及ぼした「巨人」だ。

「時代を見抜く洞察力に優れていた勝海舟。海舟だったらどうするだろうといつも考えています」

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