1985年「阪神優勝」の“陰の功労者”川藤幸三、二度の引退勧告を退けた波乱万丈の野球人生

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「やっと仕事ができた」

 5月17日のヤクルト戦、川藤がベンチ裏で素振りをしていると、島野育夫コーチが来て、「お前、バット振れ」と言った。「振ってますって」と答えると、「つべこべ言わんと、もっとバット振れ」と叱られた。

 実は、この時点で川藤の2軍落ちが決まっていたが、島野コーチが「カワにもう一度チャンスをやってくれ」と安藤統夫監督を必死に説得し、ラストチャンスを貰ったことを、あとで知った。

 3対3の9回、先頭打者として代打・川藤が告げられた。頭の中で「ロッキーのテーマ」を鳴り響かせながら打席に立った川藤は、「来た球をバットでとらえる」ことだけを考え、梶間健一から決勝点につながる安打を放った。

 さらに6月4日の大洋戦では、2対2で時間切れ引き分け寸前の延長10回1死二塁、遠藤一彦から左中間ラッキーゾーンにプロ入り後初のサヨナラ2ランを放ち、「やっと仕事ができた」と崖っぷちから這い上がってきた男の意地を見せた。

 同年は62試合に出場し、自己最多の20打点をマーク。代打の切り札として鮮やかな復活を遂げた。

「それでこそ、タイガースの伝統や」

 翌85年も6月3日の中日戦で8回に満塁の走者を一掃するイレギュラーバウンドの“左前二塁打”を放つなど、勝負強さを発揮したが、後半戦は出番が減り、出場31試合の打率.179とあまり活躍できなかった。

 その代わり、ベンチでは“ヤジ将軍”としてチームを鼓舞する一方、吉田義男監督と選手との貴重なパイプ役に徹し、V争いを演じるチームを支えつづけた。

 そんな川藤の姿を見た“初代ミスタータイガース”藤村富美男は言った。「ベンチで踏ん反り返って、監督より偉そうにしてるお前の態度。それでええ。それでこそ、タイガースの伝統や。使ってもらおうと上に媚を売ることもせんし、監督が間違ったこと言ったら、堂々と文句も吐けるしな。そういうお前の姿こそが、若いもんを育て、タイガースファンの心をとらえ、伝統っちゅうもんを作っていくんや。ヒット1本打つよりも、そっちのほうがよほど価値があるんやぞ」(織田淳太郎著「春団治・川藤幸三の『一打席入魂』 別冊宝島編集部編「一打席入魂 プロ野球代打物語」収録」)。

 10月16日、阪神はヤクルトと5対5で引き分け、ついに21年ぶりのリーグ優勝を実現する。吉田監督、掛布雅之の胴上げに続いて、“陰の功労者”川藤も3番目に宙を舞った。

 同年オフ、吉田監督から「お前はやるだけのことをやったんやから、もういいやろ」と2度目の引退勧告を受けた川藤は、「ワシはもっと働ける。本当に戦力ゼロか、挑戦させてください」と訴え、19年目の現役続行を勝ち取る。

 翌86年は打率.265、5本塁打、14打点と最後のひと花を咲かせ、監督推薦で初出場したオールスターでも第2戦で左中間真っ二つの代打安打を記録。19年間で通算211安打ながら、今もファンの記憶に残る名選手になった。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部

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