【どうする家康】戦国時代にありえない女性の大活躍 誤解を生んで今後へ悪影響も

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不憫を受け入れなければ領国を守れなかった

 まず違和感を覚えるのは、秀吉が家康を臣従させるために、すぐれて政治的な判断として実妹を嫁がせ、実母まで人質に差し出そうとしている状況で、この二人の女性が「不憫」だということが、やりとりの主題になっていることである。しかし、秀吉は最後通牒としてカードを切ってきたわけで、家康にとっては「従わなければ滅ぼす」というメッセージを送られたのも同じだった。この場面で不憫なのは、むしろ家康だろう。

 むろん、男社会の都合で「駆け引きの道具」にされる女性は、今日の目で見れば「不憫」に違いない。だが、戦国大名や、その支配下の在地領主である国衆の娘は、ほぼ例外なく政略結婚の駒だった。隣国とのあいだに安全保障を維持するため、事実上の人質にされたのだ。したがって当時は、「不憫」だという感想を抱く人がいたとしても、その感想が大名の判断や行動に影響をあたえるものではなかった。

 いい例が於大の方だった。父の水野忠政は今川氏傘下の国衆だったため、同様に今川方だった家康の父、松平広忠に娘の於大を嫁がせた。こうして家康が生まれたのだが、忠政から家督を継いだ於大の兄、水野信元が織田方についたため、広忠は今川氏との関係に配慮し、於大を離縁したのだ。

 そんな背景があるので家康は、女性は「男の駆け引きの道具ではない」と言い切る於大の方に、「母上らしくない物言いですな」と言葉を返すのだ。しかし、於大の方の主張は「母上らしくない」ばかりか、広くこの時代の女性らしくない。「駆け引きの道具」としてあつかわれた女性が「不憫」だったとしても、それを甘んじで受け入れなければ家が滅びることになりかねず、そうなればより多くの「不憫」が生じる。それが戦国の世だった。

「閣議」に側室が乗り込んで

 第34回「豊臣の花嫁」では、この先にも女性が「活躍」する場面があった。家康と重臣たちが、秀吉に臣従するかどうかを決める重要な評定を開いていると、そこに於愛が入ってきたのだ。この評定は国なら閣議、企業なら役員会である。そこにトップの側室が乗り込むなど、今日でもありえないが、それはともかく、於愛は次のように述べた。

「私は難しいことはわかりませぬ。なれど、お方様がめざした世は、殿がなさらなければならぬものなのでございますか?ほかの人が戦なき世をつくるならそれでもよいのでは?」

 すなわち、戦争がない天下泰平がもたらされるなら、その主役が家康でなくて秀吉でもいいではないか、というのが於愛の主張だ。それはまだいいとして、問題は「お方様がめざした世」である。「お方様」とは、さかのぼること7年前の天正7年(1579)に命を奪われた家康の正室で、有村架純が演じた築山殿(ドラマでは瀬名)のことだ。

 於愛の発言によると、家康は重要な政策決定をする際、亡き前妻の考え方に支配されているということになる。

 また、於愛はこの評定の場に、秀吉のもとへ出奔した重臣の石川数正(松重豊)が残していった自作の仏像と押し花を持ち込んでいた。そして、こう訴えた。

「私、ずっと考えておりました。なぜ数正殿が仏様を置いていかれたか。(そして押し花を取り出し)私にもわかりませぬ。でも、もしかしたら、いまは無きあの場所を、数正殿はここに閉じこめたのではありませんか。いつも築山に手を合わせておられたのではありませんか」

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