出現自体が“事件” ラグビー界を変えたスター「ジョナ・ロムー」の怪物伝説(小林信也)

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国際化に貢献

「暴走機関車」「空飛ぶ巨象」と形容されたロムーは「ラグビー界に初めて世界的スーパースターが誕生した」とも言われた。それには少し解説が必要だろう。

 ラグビー界にはずっと「世界選手権」と呼べる大会がなかった。1871年に史上初めてスコットランドとイングランドがテストマッチを行って以来、ラグビーの基本は対抗戦だった。やがて、アイルランド、ウェールズとの4カ国で対抗戦が始まり、これにフランスを加えた5カ国対抗戦が長くラグビーの王者を決める舞台だった。

 これに一石を投じ、オーストラリアとニュージーランドの協会が1983年、国際ラグビーフットボール評議会(IRFB、現在のワールドラグビー)に提案したのがW杯構想だった。最初は拒絶された。2年後にようやく賛同を得て87年から始まったのが、「真の世界一決定戦」とも言うべきW杯だった。

 それまでは、いくら対抗戦で5カ国のいずれかを倒しても「世界最強」の称号が得られなかったニュージーランドとオーストラリアが晴れて参戦できる。

 それは世界的なラグビーへの注目の喚起、つまりラグビーの国際化の期待も込められていた。

 ロムーは、そんな彼らの願いを体現する象徴的存在でもあった。

 実際、W杯の繁栄と世界的なラグビー普及は連動している。87年第1回大会にはIRFB加盟7カ国に加えて、日本など9カ国が招待され、予選はなかった。第2回から予選が行われ、33カ国が16の出場枠を争った。予選出場国は第3回52、第4回65と増え、2019年日本大会には93カ国が名を連ねている。本大会の出場枠も20に増えた。それだけラグビーの国際的な普及が進んだ証拠。ロムーの存在が、こうした勢いに拍車をかけたと考えるラグビー関係者は少なくない。

敵を引きずりトライ

 W杯史上、2大会連続でトライ王に輝いた選手はロムー以外にいない。95年大会では同僚のマーク・エリスと共に7トライ。99年ウェールズ大会では8トライ。その圧倒的なスピードと破壊力を相手チームはほとんど止められなかった。

 YouTubeにはロムーがトライを奪った数々の名シーンが残されている。ディフェンダーは、ロムーの正面に立ちはだかれば弾き飛ばされ、サイドからタックルに行けばハンドオフで飛ばされた。99年大会のフランス戦では、バショップからボールを受けたロムーが、7人の相手が待ち受ける輪の中に飛び込み、彼らを引きずってトライを決めた。

 だが、「怪物」も病気には勝てなかった。

 95年にネフローゼ症候群(腎臓疾患)を患い、03年に人工透析を始める。04年に腎臓移植を受け、05年には競技に復帰するが、ケガもあって往年の活躍には届かなかった。そして15年11月、腎不全に伴う急性心筋梗塞で急逝した。享年40、速すぎる男の、早すぎる生涯だった。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

週刊新潮 2023年9月14日号掲載

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