衝撃の自動車転落事故から31年…不世出の女優・太地喜和子の生き方「やる、と決めたらその作品と心中する」

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「やると決めたらその作品と心中する」

 ここで太地のプロフィールを簡単に紹介しよう。

 1943(昭和18)年、東京都生まれ。高校卒業後に東映ニューフェイスに合格し、61年、映画「二人だけの太陽」でデビュー。その後、俳優座養成所を経て文学座に入り、「近松心中物語」などの舞台、映画、テレビで活躍。杉村春子(1906~1997)のあとの文学座を背負って立つ女優として期待されていた。寅さんのマドンナに選ばれたときは「私のような清純派でない女優が寅さんの相手に選ばれるとは」と喜んでいたという。

 全身全霊で表現する女優だった。常に精いっぱい生きていて、喜びや悲しみを表現していた。

「舞台を離れても喜和子は女優だった。一緒に飲んだ人は誰でもそう思うだろうが、彼女はとことん酒を楽しみながらも芝居のことを片時も忘れなかった。その喜和子が、酒ではなく海の水を飲んで死んだという。悲しいよ、それは」

 演劇評論家の小田島雄志(92)は、朝日新聞の芸能面にそんな投稿を寄せた。

 陽気で、奔放で、クラクラするような色気がありながらも、内面の悲しみを打ち出せる女優だった。観察力が鋭く、仲間と一緒に酒を飲んでいるときも脇役を見る主役のような目をしていたという。

 私生活では俳優座養成所時代の同期で寅さんの弟分・登を演じた俳優の秋野太作(80 )と結婚するも、短期間で離婚した。「恋多き女」と騒がれたが、役柄のイメージと重なる部分も多かったのではないか。

 それにしても、太地の代表作といえば、やはり「寅次郎夕焼け小焼け」だろう。寅さんはぼたんに「所帯を持とう」とまで打ち明ける。舞台となった播州龍野は、城下町の名残をとどめる白壁や醤 油蔵など、どこか懐かしい昭和初期の佇まいが残っている。私も何度か取材で訪れたが、四角いトランクを提げた寅さんが「ヨッ!」と言って出て来そうな雰囲気がある。西空に沈んでいく太陽が山の稜線を赤々と染めたのをしっかり覚えている。

「短い人生なんだから、ああ、あんな役、やらなきゃよかったで死にたくないですから。やると決めたらその作品と心中する気でいます」

 45歳のとき雑誌「AERA」の取材に答えていた太地。石橋を何度も叩く心境で、出演を決めたのだろう。「豪放磊落」に見えるが、実は「臆病で慎重」な面もあった。

 いま生きていたら80歳。老年になっても健康的な色気を発散しただろうか。それとも、枯れた芝居を演じただろうか。太地しかできない悪女も見たかった。

 次回は、2018年に86歳で亡くなったキャバレー王・福富太郎(1931~2018)。1964年の東京五輪の際、銀座8丁目に延べ床面積1000坪、在籍ホステス800人を擁した「銀座ハリウッド」を創業した。浮世絵の世界的コレクターでもあった福富。まさに「豪快」という文字がふさわしい「キャバレー太郎」の人生に迫る。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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